コロンブス1_1
4月サンタンヘルの進言で航海に資金(100万マラベティ)を出すことを決めた王室とコロンブスとの間でサンタ・フェの協約が結ばれた。この頃新しい土地を見つけた者にはそのうちの一部の土地の統治権を与えられることが多かったが、コロンブスの要求は違っていた。
これから発見される島々や大陸の提督、副王、総督にコロンブスを任命すること、これらの土地での交易で得られる利益の10分の1を無税で与えられること、航海の費用の8分の1をコロンブスが負担した場合その利益の8分の1を得られる、などとされている。アジアからの物資を扱う商社のようなものを考えていたらしい。当然一度だけの航海ではなくこれから行われるすべての航海を提督としてのコロンブスが管理することになった。
航海の準備に入ると、乗組員集めに苦労した。よそ者の指揮のもと生きて帰れるか解らない航海に参加しようと思う船乗りはいなかった。ラ・ラビダ修道院からパロスの有力者マルティン・アロンソ・ピンソンを紹介され、ピンソン兄弟が参加することになって乗員を確保することができた。航海の費用の一部をコロンブス自身がセビリヤ在住のフィレンツェ商人ジャノット・ベラルディから借りたらしい。
8月3日ひっそりとパロスを出た3隻の船はカナリア諸島のゴメラ島に寄って、その後ひたすら西を目指した。このときコロンブスは2つの進行記録をつけている。正確なものと少な目にしたもの。乗員から不安が出たときに少な目にしたものを見せて説得するつもりだった。なかなか陸地が見つからず反乱直前になって(10月12日)グァナハニ島に着き領有を宣言している。この島がどこなのかははっきりしていない。トスカネッリの考えた東洋(インド)の位置 大航海時代叢書1
これから発見される島々や大陸の提督、副王、総督にコロンブスを任命すること、これらの土地での交易で得られる利益の10分の1を無税で与えられること、航海の費用の8分の1をコロンブスが負担した場合その利益の8分の1を得られる、などとされている。アジアからの物資を扱う商社のようなものを考えていたらしい。当然一度だけの航海ではなくこれから行われるすべての航海を提督としてのコロンブスが管理することになった。
航海の準備に入ると、乗組員集めに苦労した。よそ者の指揮のもと生きて帰れるか解らない航海に参加しようと思う船乗りはいなかった。ラ・ラビダ修道院からパロスの有力者マルティン・アロンソ・ピンソンを紹介され、ピンソン兄弟が参加することになって乗員を確保することができた。航海の費用の一部をコロンブス自身がセビリヤ在住のフィレンツェ商人ジャノット・ベラルディから借りたらしい。
8月3日ひっそりとパロスを出た3隻の船はカナリア諸島のゴメラ島に寄って、その後ひたすら西を目指した。このときコロンブスは2つの進行記録をつけている。正確なものと少な目にしたもの。乗員から不安が出たときに少な目にしたものを見せて説得するつもりだった。なかなか陸地が見つからず反乱直前になって(10月12日)グァナハニ島に着き領有を宣言している。この島がどこなのかははっきりしていない。
クーバ(キューバ)と呼ばれる大きな島に向かい、金が取れるバベケ島の話を聞き近くにあるボーイオ島のことも知った。バベケ島へは逆風で進めなかったためコロンブスはボーイオ島(エスパニョーラ島)へ向かった。ピンソンはバベケ島へ行くために許可も得ずに単独でコロンブスから離れていった。エスパニョーラ島に着き住民が金の装身具をつけているのを見、シバオで金が取れることを知ったコロンブスは12月25日夜サンタ・マリア号が座礁したこともあって島の北部にラ・ナビタ(クリスマスの意味)という砦を造り39人を残して1493年1月4日戻ってきたピンソンとともにスペインへ向かった。嵐を避けるために寄ったアゾーレス諸島でサンタンヘルに宛てた報告書簡を書き、これが公刊されて13版を重ねている。さらに嵐を避けるためにポルトガルに寄って3月にパロスに戻った。
王室はコロンブスに会う前3月30日付の書簡で次の航海の準備をするように指示している。4月20日頃バルセロナでコロンブスは両王に報告した。このとき両王はコロンブスに椅子を許すなど破格の待遇を与えた。
帰国してまもなくマルティン・アロンソ・ピンソンは死亡した。原因は梅毒とされている。コロンブスとピンソンの間で交わされたはずの約束、後にピンソンの相続人はコロンブスが得るはずの利益の半分がピンソンに与えられると訴訟で述べているが真相は分からない。イタリアでは公証人のもとに多くの資料が残されているはずなのに、スペインでは違うのかもしれない。
大航海時代年表 第2次航海1
コロンブスの第1回航海図 図説 大航海時代
王室はコロンブスに会う前3月30日付の書簡で次の航海の準備をするように指示している。4月20日頃バルセロナでコロンブスは両王に報告した。このとき両王はコロンブスに椅子を許すなど破格の待遇を与えた。
帰国してまもなくマルティン・アロンソ・ピンソンは死亡した。原因は梅毒とされている。コロンブスとピンソンの間で交わされたはずの約束、後にピンソンの相続人はコロンブスが得るはずの利益の半分がピンソンに与えられると訴訟で述べているが真相は分からない。イタリアでは公証人のもとに多くの資料が残されているはずなのに、スペインでは違うのかもしれない。
大航海時代年表 第2次航海1