コロンブス
1451年秋イタリアのジェノヴァで生まれたコロンブスは両親の商売を手伝っていた。
コロンブスが生まれた時期は記録が残されていないため,正確には判らない。後になってスペインの提督になったコロンブスのもとへ兄弟を送る契約書が見つかり、その一族の一人として推定されたもの。
1475年フランドルへ向かう船団に乗っていてポルトガル沖で攻撃され船が沈没、コロンブスはポルトガルに泳ぎ着いた。当時ポルトガルには多くのジェノヴァ商人がいてその中で仕事をしていたらしい。後の彼の航路から見て海図や風についての知識も得ていたと思われる。
1479年ボルト・サント島の統治権を持つ貴族の娘フェリパ・ペレストレーロと結婚しボルト・サント島に住んでいる。1483年末か1484年初め、長男ディエゴを残しフェリパが死亡していたためポルトガルに戻ったコロンブスはジョアン2世に西回りでアジアへ行く航海を提案したが却下された。ジョアン2世はコロンブスの提案に興味を持っていたらしく再会の約束をし、1487年には自費での航海を申し出たフランドル人に特許状を出している。
コロンブスが西回りの航海を思いついた理由も解っていない。後にエスパニョーラ島で噂されていたのは、難破してアメリカへ着き再びヨーロッパへ向かってボルト・サント島に漂着しコロンブスに話をした後死亡した男がいた、というものだった。
第一次航海の航海日誌にキオス島やギニアへ行ったことが記されている。ジェノヴァ時代にキオス島へ、1481年にエルミナへの航海に参加したとされている。この航海日誌の原本はなくなっていて、ラス・カサスが書き写したものが残っている。
コロンブスが生まれた時期は記録が残されていないため,正確には判らない。後になってスペインの提督になったコロンブスのもとへ兄弟を送る契約書が見つかり、その一族の一人として推定されたもの。
1475年フランドルへ向かう船団に乗っていてポルトガル沖で攻撃され船が沈没、コロンブスはポルトガルに泳ぎ着いた。当時ポルトガルには多くのジェノヴァ商人がいてその中で仕事をしていたらしい。後の彼の航路から見て海図や風についての知識も得ていたと思われる。
1479年ボルト・サント島の統治権を持つ貴族の娘フェリパ・ペレストレーロと結婚しボルト・サント島に住んでいる。1483年末か1484年初め、長男ディエゴを残しフェリパが死亡していたためポルトガルに戻ったコロンブスはジョアン2世に西回りでアジアへ行く航海を提案したが却下された。ジョアン2世はコロンブスの提案に興味を持っていたらしく再会の約束をし、1487年には自費での航海を申し出たフランドル人に特許状を出している。
コロンブスが西回りの航海を思いついた理由も解っていない。後にエスパニョーラ島で噂されていたのは、難破してアメリカへ着き再びヨーロッパへ向かってボルト・サント島に漂着しコロンブスに話をした後死亡した男がいた、というものだった。
第一次航海の航海日誌にキオス島やギニアへ行ったことが記されている。ジェノヴァ時代にキオス島へ、1481年にエルミナへの航海に参加したとされている。この航海日誌の原本はなくなっていて、ラス・カサスが書き写したものが残っている。
1485年ディエゴを連れてスペインに移ったコロンブスはパロスのラ・ラビダ修道院を訪ねマルチェーナ神父の理解と支持を得た。このときパンと水を求めたという話もある。神父は商船隊を持っているメディナ・セリ伯に話し、興味を持ったメディナ・セリ伯は航海の許可を王室に求めた。イサベル女王はコロンブスの話に興味を示しタラベーラ神父の主催する委員会に諮問することにした。委員会では否定的な意見が多かったがタラベーラ神父は結論を出すのを延ばしていた。
なかなか結論が出ないためコロンブスは弟のバルトロメーを1488年にイギリス、フランスへ送り同様の提案をさせている。またこのころ庶子エルナンドが生まれている。コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を出し逮捕されない保証を得た後ポルトガルへ戻ったが喜望峰が発見されたため断念し再びスペインへ向かった。
1490年委員会が否定的な結論を出したため、コロンブスは1491年ラ・ラビダ修道院を訪ねフランスへ向かうことを伝えたがマルチェーナ神父は引き止めイサベル女王に再考を求めている。
1492年1月グラナダ入城式の後再び委員会が否定的な結論を出したため、コロンブスはフランスへ行くためにグラナダを発った。15キロほど行ったときに女王の急使が追いつき再考するから戻るように伝えた。アラゴンの経理官サンタンヘルの進言で航海に必要な費用はサンタンヘルが工面し、後で王室から支払われることになった。
スペインと便宜的に呼んでいるがこの頃はカスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェルナンド王が結婚していたがそれぞれ別の国だった。さらにナバラ王国も加わって現在のスペインとなるのは両王の孫カルロス1世のとき。
大航海時代年表 第1次航海
なかなか結論が出ないためコロンブスは弟のバルトロメーを1488年にイギリス、フランスへ送り同様の提案をさせている。またこのころ庶子エルナンドが生まれている。コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を出し逮捕されない保証を得た後ポルトガルへ戻ったが喜望峰が発見されたため断念し再びスペインへ向かった。
1490年委員会が否定的な結論を出したため、コロンブスは1491年ラ・ラビダ修道院を訪ねフランスへ向かうことを伝えたがマルチェーナ神父は引き止めイサベル女王に再考を求めている。
1492年1月グラナダ入城式の後再び委員会が否定的な結論を出したため、コロンブスはフランスへ行くためにグラナダを発った。15キロほど行ったときに女王の急使が追いつき再考するから戻るように伝えた。アラゴンの経理官サンタンヘルの進言で航海に必要な費用はサンタンヘルが工面し、後で王室から支払われることになった。
スペインと便宜的に呼んでいるがこの頃はカスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェルナンド王が結婚していたがそれぞれ別の国だった。さらにナバラ王国も加わって現在のスペインとなるのは両王の孫カルロス1世のとき。
大航海時代年表 第1次航海