アメリゴ・ヴェスプッチ2
ベラルディはコロンブスが第一次航海に出る前に資金を融資していたらしい。1495年死を前にしたベラルディはコロンブスに対し18万マラベティの債権があると述べている。これがコロンブスが自身で用意した第一次航海の資金だった可能性が高い。第二次航海ではベラルディは船を一隻調達し、乾パンを納入している。アメリゴはコロンブスと知り合いになっていた。1494年ベラルディはコロンブスの事業の改革案をカトリック両王に提出している。彼の案は採用されなかったが王室は渡航の自由化を考え始めていた。
アメリゴは事業の報告を頻繁にロレンツォ・イル・ポポラーノに書き送っていた。ベラルディの死後、遺言の執行人としての残務整理を終えたアメリゴにフェルナンド王から航海に参加するようにという誘いがあったらしい。
アメリゴの4回の航海についての公式な資料は残されていない。アメリゴがフィレンツェに送った個人的な手紙だけが残されている。ロレンツォ・イル・ポポラーノに送った手紙「新世界」は1503年末頃にフィレンツェとパリで印刷されていて、その後ラテン語からイタリア語、ドイツ語、オランダ語、フランス語などに訳された。1504年9月4日付けのピエロ・ソデリーニ宛の手紙も「4回の航海」として1505年か06年にフィレンツェで出版された。何故か「新世界」は忘れられ、「4回の航海」が19世紀に至るまで読み続けられていた。
アメリゴは事業の報告を頻繁にロレンツォ・イル・ポポラーノに書き送っていた。ベラルディの死後、遺言の執行人としての残務整理を終えたアメリゴにフェルナンド王から航海に参加するようにという誘いがあったらしい。
アメリゴの4回の航海についての公式な資料は残されていない。アメリゴがフィレンツェに送った個人的な手紙だけが残されている。ロレンツォ・イル・ポポラーノに送った手紙「新世界」は1503年末頃にフィレンツェとパリで印刷されていて、その後ラテン語からイタリア語、ドイツ語、オランダ語、フランス語などに訳された。1504年9月4日付けのピエロ・ソデリーニ宛の手紙も「4回の航海」として1505年か06年にフィレンツェで出版された。何故か「新世界」は忘れられ、「4回の航海」が19世紀に至るまで読み続けられていた。
1507年ロレーヌ地方のサン・ディエの修道院から「世界地理入門」が出版された。プトレマイオスの「地理学」の改訂版だったが、最後にアメリゴのソデリーニ宛の手紙をロレーヌ公宛の手紙として掲載し、ヴァルトゼミュラーの地図が付けられていた。アメリクス(ラテン語読み)の女性形アメリカが南米大陸に当たる部分の名前とされていた。ヨーロッパ各地で読まれ一年で7版(7000部)が作られた。
これに怒ったのがラス・カサスだった。彼はアメリゴが航海の日付を変えて、コロンブスの功績を横取りしたと考えた。ラリアブという地名がなぜかパリアスとされていたことも問題だった。彼の航海の翌年コロンブスがパリア湾で初めて大陸に着いたからことになるからだった。アメリゴ自身がロレーヌ公に働きかけたわけではなく、ヨーロッパで広く知られていた彼の手紙によってロレーヌ公の許で地理学に関心を持つ人たちが考えた結果だった。
その後18世紀後半になってアメリゴの再評価が始まり、4通の手紙が見つかった。1通の宛先は不明で残る3通はロレンツォ・イル・ポポラーノに宛てたものだった。特に第一次航海については疑問が多い。 現在まで多くの研究者によって調べられてきたが明確な結論は出ていない。
大航海時代年表 アメリゴ・ヴェスプッチ3
これに怒ったのがラス・カサスだった。彼はアメリゴが航海の日付を変えて、コロンブスの功績を横取りしたと考えた。ラリアブという地名がなぜかパリアスとされていたことも問題だった。彼の航海の翌年コロンブスがパリア湾で初めて大陸に着いたからことになるからだった。アメリゴ自身がロレーヌ公に働きかけたわけではなく、ヨーロッパで広く知られていた彼の手紙によってロレーヌ公の許で地理学に関心を持つ人たちが考えた結果だった。
その後18世紀後半になってアメリゴの再評価が始まり、4通の手紙が見つかった。1通の宛先は不明で残る3通はロレンツォ・イル・ポポラーノに宛てたものだった。特に第一次航海については疑問が多い。 現在まで多くの研究者によって調べられてきたが明確な結論は出ていない。
大航海時代年表 アメリゴ・ヴェスプッチ3
左にカリブ海と大まかな南米大陸、太平洋と思われる海については何も分かっていなかった。 1513年になるとヴァルトゼミュラーは従来通りの概念の地図(新大陸の西部とアジアの関係を示していない)に戻っている。 図説 大航海時代 河出書房新社より |