アメリゴ・ヴェスプッチ1
アメリゴ・ヴェスプッチは1454年3月フィレンツェで生まれた。コロンブスよりも3歳、レオナルド・ダ・ヴィンチより2歳若い。ヴェスプッチ一族はフィレンツェのオニサンティ地区に住んでいた。同じ地区にボッティチェリも住んでいて、1480年に描かれたオニサンティ聖堂の「書斎の聖アウグスティヌス」はヴェスプッチ家が依頼したもの。画面の上に赤いヴェスプッチ家の紋章がある。アメリゴが描かれている作品にギルランダイオの「慈悲の聖母」1473年とボッティチェリの「サン・ジョルジョ」1481年がある。
父ナスタジオは公証人で、長男アントニオも公証人となった。次男は修道僧、三男がアメリゴ、四男は放浪癖がありハンガリーまで行っている。
著名な人文主義者だった叔父ジョルジョ・アントニオに古典などを学んだアメリゴは、1478年大使としてフランスへ向かう遠縁の伯父グイド・アントニオに秘書として同行、2年間外交を学んだ。この頃フィレンツェはパッツィの乱の後法王・ナポリ同盟軍と戦っていて、古くから友好関係にあるフランスへ支持と支援を求めるのが目的だった。
1482年父ナスタジオが死去、パッツィ家の没収財産の管理責任者に任命されていた長男に代わりアメリゴが公私の整理に当たった。
その後アメリゴはメディチ家の分家(老コジモの弟ロレンツォの家系)ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの執事となった。この通称ロレンツォ・イル・ポポラーノと呼ばれる人がボッティチェリに「プリマヴェーラ」「パラスとケンタウロス」「ヴィーナスの誕生」を依頼した。
父ナスタジオは公証人で、長男アントニオも公証人となった。次男は修道僧、三男がアメリゴ、四男は放浪癖がありハンガリーまで行っている。
著名な人文主義者だった叔父ジョルジョ・アントニオに古典などを学んだアメリゴは、1478年大使としてフランスへ向かう遠縁の伯父グイド・アントニオに秘書として同行、2年間外交を学んだ。この頃フィレンツェはパッツィの乱の後法王・ナポリ同盟軍と戦っていて、古くから友好関係にあるフランスへ支持と支援を求めるのが目的だった。
1482年父ナスタジオが死去、パッツィ家の没収財産の管理責任者に任命されていた長男に代わりアメリゴが公私の整理に当たった。
その後アメリゴはメディチ家の分家(老コジモの弟ロレンツォの家系)ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの執事となった。この通称ロレンツォ・イル・ポポラーノと呼ばれる人がボッティチェリに「プリマヴェーラ」「パラスとケンタウロス」「ヴィーナスの誕生」を依頼した。
ロレンツォ・イル・ポポラーノはスペインの代理店に貿易業務を委託していたが、不正の疑惑があり、後任の代理店の候補としてジャネット・ベラルディが上げられた。1489年9月アメリゴは信用調査のためセビリヤへ向かった。アメリゴはベラルディを信用できる人物と評価したが、会計帳簿の写しを持って11月フィレンツェに戻った。その帰途ピサで一枚の地図を買っている。
パッツィの乱以後の戦争で資金的に苦しくなっていた事実上の君主ロレンツォ・イル・マニフィコは分家の資金を勝手に流用した。ロレンツィーノが10歳の時に父が死亡していたためロレンツォ・イル・マニフィコが後見人となっていた。この資金の返済が不十分だったことから本家と分家の間で対立が始まった。さらに1487年以降サヴォナローラの影響で、フィレンツェの人々は大きく二つのグループに分かれた。ジョルジョ・アントニオはサヴォナローラの熱心な支持者となり、グイド・アントニオは反サヴォナローラ派となった。メディチ家本家の支持者は反サヴォナローラ派、分家の支持者はサヴォナローラ派となっていった。
1491年末アメリゴはセビリヤへ向かった。理由は分からないがベラルディ商会に入り、メディチ家関係の仕事の支配人となった。以後フィレンツェには戻らなかった。
大航海時代年表 アメリゴ・ヴェスプッチ2下左 オニサンティ聖堂
下右 オニサンティ聖堂にあるヴェスプッチ家礼拝堂
上部半円形の部分にギルランダイオの「慈悲の聖母」
図説 ボッティチェリの都 フィレンツェ 河出書房新社より
パッツィの乱以後の戦争で資金的に苦しくなっていた事実上の君主ロレンツォ・イル・マニフィコは分家の資金を勝手に流用した。ロレンツィーノが10歳の時に父が死亡していたためロレンツォ・イル・マニフィコが後見人となっていた。この資金の返済が不十分だったことから本家と分家の間で対立が始まった。さらに1487年以降サヴォナローラの影響で、フィレンツェの人々は大きく二つのグループに分かれた。ジョルジョ・アントニオはサヴォナローラの熱心な支持者となり、グイド・アントニオは反サヴォナローラ派となった。メディチ家本家の支持者は反サヴォナローラ派、分家の支持者はサヴォナローラ派となっていった。
1491年末アメリゴはセビリヤへ向かった。理由は分からないがベラルディ商会に入り、メディチ家関係の仕事の支配人となった。以後フィレンツェには戻らなかった。
大航海時代年表 アメリゴ・ヴェスプッチ2
下右 オニサンティ聖堂にあるヴェスプッチ家礼拝堂
上部半円形の部分にギルランダイオの「慈悲の聖母」
図説 ボッティチェリの都 フィレンツェ 河出書房新社より