カナリア諸島征服記 1
カナリア諸島の存在はフェニキア人に知られていたらしく、古代ローマでも知られていた。
14世紀前半にポルトガル王に仕えていたジェノヴァ人が開発を試み、1370年以降、教皇の勅許を得て島を封土にすることにしたポルトガル王が植民を始めたが、住民の抵抗にあって1385年に挫折している。1393年にカスティリャ(後のスペイン)のエンリケ3世の許可を得たゴンサロ・ペレスがランサロテ島の王と王妃を捕らえ、戦利品を得て帰国している。
1402年5月フランスの二人の騎士、ジャン・ド・ベタンクールとガディフェール・ド・ラ・サールがラ・ロッシェルがらカナリア諸島征服に向かった。この征服は国王やオルレアン公の命令ではなく、個人的な目的でおこなわれたものらしい。ガディフェールは反乱を起こされ、ヨーロッパからの援助物資が届かないなか征服を進めたが、ベタンクールは同年10月にヨーロッパに戻り領地として認めてもらうために動いていた。1404年4月にベタンクールはカナリア諸島へ戻ったが、領地のことでガディフェールと対立し、ガディフェールは島を去った。ベタンクールはノルマンディの領地に戻り植民者を募って1405年5月カナリア諸島へ向かった。12月甥のマシオを副官として島を去り、その後戻らなかった。
「カナリア諸島征服記」には、ベタンクール側から書かれた「ベタンクール本」とガディフェール側から書かれた「ガディフェール本」がある。どちらも従軍僧によって書かれているが、権益確保のためにベタンクールの死まで書かれた「ベタンクール本」が広く読まれていた。大航海時代叢書では期間は短いが実録として優れている「ガディフェール本」が完訳されている。
トゥレーヌ公(後にオルレアン公)は王侯詩人シャルル・ドルレアンの父ルイ・ドルレアン。
シャンベラン 本来はお部屋係、侍従を意味していたが、この頃は君侯直属の軍人の称号になっていたらしい。
大航海時代 1400年代
14世紀前半にポルトガル王に仕えていたジェノヴァ人が開発を試み、1370年以降、教皇の勅許を得て島を封土にすることにしたポルトガル王が植民を始めたが、住民の抵抗にあって1385年に挫折している。1393年にカスティリャ(後のスペイン)のエンリケ3世の許可を得たゴンサロ・ペレスがランサロテ島の王と王妃を捕らえ、戦利品を得て帰国している。
1402年5月フランスの二人の騎士、ジャン・ド・ベタンクールとガディフェール・ド・ラ・サールがラ・ロッシェルがらカナリア諸島征服に向かった。この征服は国王やオルレアン公の命令ではなく、個人的な目的でおこなわれたものらしい。ガディフェールは反乱を起こされ、ヨーロッパからの援助物資が届かないなか征服を進めたが、ベタンクールは同年10月にヨーロッパに戻り領地として認めてもらうために動いていた。1404年4月にベタンクールはカナリア諸島へ戻ったが、領地のことでガディフェールと対立し、ガディフェールは島を去った。ベタンクールはノルマンディの領地に戻り植民者を募って1405年5月カナリア諸島へ向かった。12月甥のマシオを副官として島を去り、その後戻らなかった。
「カナリア諸島征服記」には、ベタンクール側から書かれた「ベタンクール本」とガディフェール側から書かれた「ガディフェール本」がある。どちらも従軍僧によって書かれているが、権益確保のためにベタンクールの死まで書かれた「ベタンクール本」が広く読まれていた。大航海時代叢書では期間は短いが実録として優れている「ガディフェール本」が完訳されている。
トゥレーヌ公(後にオルレアン公)は王侯詩人シャルル・ドルレアンの父ルイ・ドルレアン。
シャンベラン 本来はお部屋係、侍従を意味していたが、この頃は君侯直属の軍人の称号になっていたらしい。
大航海時代 1400年代
ガディフェールは1353年ころに生まれたポワトゥの騎士で、1378年には芸術保護者ベリー公ジャンのシャンベラン(直属軍人)になっている。この頃部下として騎士5人、従騎士22人がいたらしい。軍人としての声価を高め、国王シャルル6世のシャンベランとなり、1392年にはピレネー近くのビゴールの国王代官に任命されている。1390年にシャルル6世の弟トゥレーヌ公(後にオルレアン公)からバルバリアへの遠征費を受領している。
ガディフェールは、ビゴールの辞めようとしない前任者をかばっていた有力者とその妻にリンチを加え死なせている。また、いとこの進まない縁談に、花嫁をさらってきて結婚させている。
軍人としては知られた人物だったらしい。帰国後、1409年のジェノヴァ鎮圧軍に軍人のトップ、プシコーに次ぐナンバー2として参加している。
ベタンクールは1359/60年に生まれたノルマンディの騎士。アンジュー公と国王のもとで食糧担当係を務めたあと、従騎士となってトゥレーヌ公のシャンベランになっている。彼も1390年にトゥレーヌ公からバルバリアへの遠征費を受領している。
ベタンクールの領地は貿易港の後背地で、勝手に市を開き、1381年に近くのルーアン市との間に争いが起きたが、国王から市の開催が追認されている。1387年に領地に礼拝堂を建て、翌年には城の補修を自費でおこなっている。1392年には主君オルレアン公の経費で結婚し、その後も蓄財に努めている。1402年10月にカナリア諸島からカスティリャに向かい、翌年10月にカナリア諸島をベタンクールの領地と認めてもらい、カナリア諸島の王と呼ばれている。しかし、1405年5月、植民者を募りカナリア諸島へ向かったが、その際に従兄と妻に財産を預け金を出してもらったことが、売却したことにされてしまった。1405年12月、最終的にカナリア諸島から戻り、諸島の権益確保を計って領地に戻ったが、一族の財産争いや百年戦争で領地がイギリス支配下におかれるなど、困難な晩年を送った。
カナリア諸島征服記 2 3 4
ガディフェールは、ビゴールの辞めようとしない前任者をかばっていた有力者とその妻にリンチを加え死なせている。また、いとこの進まない縁談に、花嫁をさらってきて結婚させている。
軍人としては知られた人物だったらしい。帰国後、1409年のジェノヴァ鎮圧軍に軍人のトップ、プシコーに次ぐナンバー2として参加している。
ベタンクールは1359/60年に生まれたノルマンディの騎士。アンジュー公と国王のもとで食糧担当係を務めたあと、従騎士となってトゥレーヌ公のシャンベランになっている。彼も1390年にトゥレーヌ公からバルバリアへの遠征費を受領している。
ベタンクールの領地は貿易港の後背地で、勝手に市を開き、1381年に近くのルーアン市との間に争いが起きたが、国王から市の開催が追認されている。1387年に領地に礼拝堂を建て、翌年には城の補修を自費でおこなっている。1392年には主君オルレアン公の経費で結婚し、その後も蓄財に努めている。1402年10月にカナリア諸島からカスティリャに向かい、翌年10月にカナリア諸島をベタンクールの領地と認めてもらい、カナリア諸島の王と呼ばれている。しかし、1405年5月、植民者を募りカナリア諸島へ向かったが、その際に従兄と妻に財産を預け金を出してもらったことが、売却したことにされてしまった。1405年12月、最終的にカナリア諸島から戻り、諸島の権益確保を計って領地に戻ったが、一族の財産争いや百年戦争で領地がイギリス支配下におかれるなど、困難な晩年を送った。
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