
ロッソ・フィオレンティーノ 1
ロッソ・フィオレンティーノ Rosso Fiorentino
(1494〜1540)
ポントルモと同じ年にフィレンツェに生まれ、赤毛(ロッソ)のためにイル・ロッソと呼ばれた。ミケランジェロやラファエロの活動期に育ち、アンドレア・デル・サルトとフラ・バルトロメオの工房で修業する、ポントルモと同じ経過をたどった。しかし、フィレンツェに定住したポントルモに対し、ロッソはパトロンを求めて各地を放浪した。1524年にローマへ行き、27年に「ローマ劫掠」に遭い、ペルージャ、サンセポルクロ、アレッツォなどに作品を残して、30年にフランスへ行って、40年に客死(自殺)した。
ポントルモはフィレンツェ絵画の伝統を継承しながら、それを変質させていたため一定の評価を受けたが、ロッソは伝統を否定したため、初期の作品はいずれも不評に終わった。ポントルモは「巨匠」を継承、発展させようとしたが、ロッソは乗り越えようとした。
最初の大作「聖母被昇天(1515年)」には聖母の遺骸が納められていた石棺がない、場所を説明するものもなく、前面に使徒たちがひしめいている。遠近法を無視して、空を見上げる人物の壁によって奇跡の舞台としようとした。
ヴァザーリはミケランジェロの「カッシナの戦い」からの影響を伝えているが、システィーナ礼拝堂天井画からの影響も受けている。またロッソはフィレンツェの画風が気に入らず、ミケランジェロの「カッシナの戦い」とレオナルドの「アンギアーリの戦い」から学んだとされる。1501年(ロッソ7才)に公開されたレオナルドの「聖アンナと聖母子、幼児聖ヨハネ」の下図を見たかもしれない。輪郭線がなく、黒白の明暗だけで描かれているこの下図は見えるものは実体ではなく、網膜が受ける光の効果だということを示していた。ロッソは何かを受け取ったのかもしれない。
世界美術大全集15 マニエリスム
ロッソ・フィオレンティーノ2 人物略歴
ロッソ・フィオレンティーノ
聖母子と四聖人 1518年 板 油彩 172×141cm
フィレンツェ ウフィツィ美術館
(1494〜1540)
ポントルモと同じ年にフィレンツェに生まれ、赤毛(ロッソ)のためにイル・ロッソと呼ばれた。ミケランジェロやラファエロの活動期に育ち、アンドレア・デル・サルトとフラ・バルトロメオの工房で修業する、ポントルモと同じ経過をたどった。しかし、フィレンツェに定住したポントルモに対し、ロッソはパトロンを求めて各地を放浪した。1524年にローマへ行き、27年に「ローマ劫掠」に遭い、ペルージャ、サンセポルクロ、アレッツォなどに作品を残して、30年にフランスへ行って、40年に客死(自殺)した。
ポントルモはフィレンツェ絵画の伝統を継承しながら、それを変質させていたため一定の評価を受けたが、ロッソは伝統を否定したため、初期の作品はいずれも不評に終わった。ポントルモは「巨匠」を継承、発展させようとしたが、ロッソは乗り越えようとした。
最初の大作「聖母被昇天(1515年)」には聖母の遺骸が納められていた石棺がない、場所を説明するものもなく、前面に使徒たちがひしめいている。遠近法を無視して、空を見上げる人物の壁によって奇跡の舞台としようとした。
ヴァザーリはミケランジェロの「カッシナの戦い」からの影響を伝えているが、システィーナ礼拝堂天井画からの影響も受けている。またロッソはフィレンツェの画風が気に入らず、ミケランジェロの「カッシナの戦い」とレオナルドの「アンギアーリの戦い」から学んだとされる。1501年(ロッソ7才)に公開されたレオナルドの「聖アンナと聖母子、幼児聖ヨハネ」の下図を見たかもしれない。輪郭線がなく、黒白の明暗だけで描かれているこの下図は見えるものは実体ではなく、網膜が受ける光の効果だということを示していた。ロッソは何かを受け取ったのかもしれない。
世界美術大全集15 マニエリスム
ロッソ・フィオレンティーノ2 人物略歴
聖母子と四聖人 1518年 板 油彩 172×141cm
フィレンツェ ウフィツィ美術館
ヴァザーリは、ロッソの才能を認めながら、色を「丁寧に塗る」ことを知らないのが最大の欠点だとしている。ロッソは精密な素描をせず、綿密に色を塗らなかった。最初の祭壇画で不評だった「聖母子と四聖人(1518年)」や「聖母子と聖人たち(1522年)」には輪郭線がなく、鮮明な色彩の粗い面が形態を構成している。その色面の上にまばらに光が射し、ある色を浮かび上がらせ、他の色を曖昧にしている。

画像 ウフィツィ美術館 公認ガイド

画像 ウフィツィ美術館 公認ガイド