
グリューネヴァルト 2
残されている最初期の作品は「最後の晩餐」。横長の画面から祭壇のプレデッラだったと考えられている。人物の容貌や動作の捉え方にハンス・ホルバイン(父)の影響がみられるが、その表現は劇的に強められている。「キリストへの嘲笑(1504〜05年)」では有機的な構図などにデューラーからの影響がみられる。また1509〜11年にデューラーの「聖母の被昇天と戴冠」を中央図とする、ヘラー祭壇画の外側固定翼と上方にグリザイユ画とフレスコ画を描いている。共作ということになる。
1512年から15年にかけて大作、イーゼンハイム祭壇画を制作している。中世ヨーロッパで流行した「聖アントニウスの火」と呼ばれた疫病に施療するためのアントニウス修道院に由来する祭壇。ハーゲナウアー作の木彫群を納める厨子を中心に、二重の外翼が包み、バイヘル作のキリストと十二使徒の木彫群をプレデッラが覆うという構造。フランス革命時に破損消滅した上部の尖塔装飾を加えると高さは8メートルほどだったとされている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴 グリューネヴァルト1
1512年から15年にかけて大作、イーゼンハイム祭壇画を制作している。中世ヨーロッパで流行した「聖アントニウスの火」と呼ばれた疫病に施療するためのアントニウス修道院に由来する祭壇。ハーゲナウアー作の木彫群を納める厨子を中心に、二重の外翼が包み、バイヘル作のキリストと十二使徒の木彫群をプレデッラが覆うという構造。フランス革命時に破損消滅した上部の尖塔装飾を加えると高さは8メートルほどだったとされている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴 グリューネヴァルト1
グリューネヴァルトの所持品のなかに「朱色の宮廷服」や「繻子(しゅす)の上着」がある。イーゼンハイム祭壇画に取りかかる前から、マインツ大司教ウリエル・フォン・ゲミンゲンの宮廷に仕え、宮殿の増改築工事にも携わっている。1514年、ウリエルが死去し、その後任アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに仕えることになった。アルブレヒトはマクデブルク大司教も兼任し、選帝侯、帝国尚書も務めていた。1518年に枢機卿となる。
アルブレヒトのもとで多くの作品を制作した。1525年の「聖エラスムスと聖マウリティウス」の聖エラスムスのモデルはアルブレヒトだった。豪華な祭服姿のエラスムスを先任のハレ市の守護聖人聖マウリティウスが出迎えている場面。
「キリストの磔刑」はイーゼンハイム祭壇画の他にも制作している。どの作品もドイツ神秘思想の伝統を引き継いでいるのか、死の苦悩と悲劇性を表している。
聖マウリティウス 古代ローマ時代、キリスト教徒の迫害を拒否としたために、ローマ皇帝によって殺された軍団の指揮官。10世紀にオットー1世によってマクデブルクの守護聖人とされ、その後神聖ローマ帝国、ハレ市の守護者にもされていた。
アルブレヒトのもとで多くの作品を制作した。1525年の「聖エラスムスと聖マウリティウス」の聖エラスムスのモデルはアルブレヒトだった。豪華な祭服姿のエラスムスを先任のハレ市の守護聖人聖マウリティウスが出迎えている場面。
「キリストの磔刑」はイーゼンハイム祭壇画の他にも制作している。どの作品もドイツ神秘思想の伝統を引き継いでいるのか、死の苦悩と悲劇性を表している。
聖マウリティウス 古代ローマ時代、キリスト教徒の迫害を拒否としたために、ローマ皇帝によって殺された軍団の指揮官。10世紀にオットー1世によってマクデブルクの守護聖人とされ、その後神聖ローマ帝国、ハレ市の守護者にもされていた。