
グリューネヴァルト 1
マティアス・グリューネヴァルト Matthias Grunewalt
1475/80?〜1528
20世紀になって、ドイツ的造形芸術を創造した芸術家と認められるようになった画家。
17世紀の画家・美術批評家ザントラルトは、その著書(1675〜79)でこの画家についての多くの情報を伝えてくれているが、同時期のほかの画家の名前と混同したのか、名前をマテウス・グリューネヴァルトとしている。1600年頃、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世がイーゼンハイムにある祭壇画の獲得を試みたとき、すでに画家は不明となっていた。作品は末期ゴシック風の強烈な表現的形式で広く知られていたが、画家の名前は忘れられていた。
ザントラルトがグリューネヴァルトの作品としている「聖ラウレンティウス」にMGNを組み合わせたモノグラムがある。このモノグラムなどから画家は「マティアス・ゴートハルト」などと呼ばれ、ヴュルツブルク出身でゼーリンゲンシュタットに工房を置いてたことがわかった。
1528年9月、ハレ市に市民3人の名義で画家の死亡報告書が提出された。当市の公務に携わっていた「画家あるいは噴水建造技師マテス・ゴートハルト(グリューネヴァルト)」がハレで死亡した。故人がフランクフルトの絹刺繍工ハンスのもとに預けていた遺言書がゼーリンゲンシュタットにいる養子のもとに届けられるよう取り計らってほしい、というもの。
世界美術大全集14 北方ルネサンス 人物略歴
1475/80?〜1528
20世紀になって、ドイツ的造形芸術を創造した芸術家と認められるようになった画家。
17世紀の画家・美術批評家ザントラルトは、その著書(1675〜79)でこの画家についての多くの情報を伝えてくれているが、同時期のほかの画家の名前と混同したのか、名前をマテウス・グリューネヴァルトとしている。1600年頃、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世がイーゼンハイムにある祭壇画の獲得を試みたとき、すでに画家は不明となっていた。作品は末期ゴシック風の強烈な表現的形式で広く知られていたが、画家の名前は忘れられていた。
ザントラルトがグリューネヴァルトの作品としている「聖ラウレンティウス」にMGNを組み合わせたモノグラムがある。このモノグラムなどから画家は「マティアス・ゴートハルト」などと呼ばれ、ヴュルツブルク出身でゼーリンゲンシュタットに工房を置いてたことがわかった。
1528年9月、ハレ市に市民3人の名義で画家の死亡報告書が提出された。当市の公務に携わっていた「画家あるいは噴水建造技師マテス・ゴートハルト(グリューネヴァルト)」がハレで死亡した。故人がフランクフルトの絹刺繍工ハンスのもとに預けていた遺言書がゼーリンゲンシュタットにいる養子のもとに届けられるよう取り計らってほしい、というもの。
世界美術大全集14 北方ルネサンス 人物略歴
フランクフルトの市参事会が遺言書を調査し、ハンスのもとに預けてあったグリューネヴァルトの所持品(103項目)の目録を作成している。そのなかに「反乱のゆえの証文」がある。そのほか新約聖書やルターの説教集、「キリスト教信仰の12箇条」、パンフレット類などがあった。
1525年は農民戦争と宗教改革運動で、都市の下層市民から知識階級まで多くの人々が混乱に巻き込まれた。翌1526年、諸侯たちとともにこの動きを制圧したマインツ大司教(枢機卿)アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、農民の反乱に加担あるいはルターに同調した疑いがある家臣を裁判にかけ、罰金・追放の処罰をしている。グリューネヴァルトはこの年、宮廷での働きについての支払いを受けた後、アルブレヒトの官憲が及ばない、自由都市フランクフルトへ移住している。ルターへの共感の疑いをかけられながらも、それまでの宮廷画家兼技術者としての働きで、疑いはあるが、それによって復讐(訴追)されることはないと保証されたらしい。
フランクフルトでは絹刺繍工ハンスの世話になりながら、画家としての活動をやめて、石鹸製造や顔料の製造販売をおこなっている。彼の作品は17世紀バロック時代に再び共感を得られたが、名前は忘れられてしまった(名前を消そうとしたのかも?)。
初期の「キリストへの嘲笑(1504〜05)」にデューラーやホルバイン(父)などの影響がみられることから、1575〜80年頃に生まれたと考えられている。
グリューネヴァルト2
1525年は農民戦争と宗教改革運動で、都市の下層市民から知識階級まで多くの人々が混乱に巻き込まれた。翌1526年、諸侯たちとともにこの動きを制圧したマインツ大司教(枢機卿)アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、農民の反乱に加担あるいはルターに同調した疑いがある家臣を裁判にかけ、罰金・追放の処罰をしている。グリューネヴァルトはこの年、宮廷での働きについての支払いを受けた後、アルブレヒトの官憲が及ばない、自由都市フランクフルトへ移住している。ルターへの共感の疑いをかけられながらも、それまでの宮廷画家兼技術者としての働きで、疑いはあるが、それによって復讐(訴追)されることはないと保証されたらしい。
フランクフルトでは絹刺繍工ハンスの世話になりながら、画家としての活動をやめて、石鹸製造や顔料の製造販売をおこなっている。彼の作品は17世紀バロック時代に再び共感を得られたが、名前は忘れられてしまった(名前を消そうとしたのかも?)。
初期の「キリストへの嘲笑(1504〜05)」にデューラーやホルバイン(父)などの影響がみられることから、1575〜80年頃に生まれたと考えられている。
グリューネヴァルト2