
ヴァザーリ 4
ヴァザーリがフィレンツェに戻った頃、コジモ1世はメディチ邸からパラッツォ・ヴェッキオに移り、メディチ家による支配を明確にする都市改造事業として、パラッツォ・ヴェッキオ尊厳化のための内部装飾をおこない、シニョリーア広場を君主国的に改造しようとしていた。
大規模な改造計画が提案され(その多くは実現されなかったが)、コジモの信頼を得たヴァザーリは、広場の改造と一体になった役所の建築、パラッツォ・デッリ・ウフィツィの建造を手がけることになった。公爵の宮殿と政庁が一体化することで支配者としてのメディチ家が明確になり、広場やロッジャに設置された彫刻群は一連の建物と広場の政治的意味を明らかにした。
1495年には、専制君主の暗殺という反メディチ感情を煽るドナテッロの「ユデッィトとホロフェルネス」がメディチ邸から広場に移され、1504年にはフィレンツェ共和制の象徴、ミケランジェロの「ダヴィデ」が置かれていた。
共和制が崩壊して、メディチ支配の力の象徴としてバンディネッリの「ヘラクレスとカクス」が「ダヴィデ」と相対して置かれた。「ハプスブルクの海軍の長」をめざしたコジモはアンマナーティーに巨大な「ネプトゥヌスの噴水」をつくらせ、自らの騎馬像をジャンボローニャに建造させた。
コジモ1世はパラッツォ・ヴェッキオの装飾で、祖先の歴史を神話化し、自らの時代を黄金時代として栄光化しようとした。
「五百人広間」はクローナカによってヴェネツィアの「大評議会広間」をもとに設計された。1512年に共和制が崩壊すると、兵士の馬小屋として使われ、1527〜30年の短い共和制復帰の間は合議の会場に戻っていた。
世界美術大全集15 マニエリスム
ヴァザーリ5 1・2・3 人物略歴
ジョルジョ・ヴァザーリおよび助手たち
「フィレンツェの創建」1563〜65年 板 油彩 モノクロ
フィレンツェ パラッツォ・ヴェッキオ
大規模な改造計画が提案され(その多くは実現されなかったが)、コジモの信頼を得たヴァザーリは、広場の改造と一体になった役所の建築、パラッツォ・デッリ・ウフィツィの建造を手がけることになった。公爵の宮殿と政庁が一体化することで支配者としてのメディチ家が明確になり、広場やロッジャに設置された彫刻群は一連の建物と広場の政治的意味を明らかにした。
1495年には、専制君主の暗殺という反メディチ感情を煽るドナテッロの「ユデッィトとホロフェルネス」がメディチ邸から広場に移され、1504年にはフィレンツェ共和制の象徴、ミケランジェロの「ダヴィデ」が置かれていた。
共和制が崩壊して、メディチ支配の力の象徴としてバンディネッリの「ヘラクレスとカクス」が「ダヴィデ」と相対して置かれた。「ハプスブルクの海軍の長」をめざしたコジモはアンマナーティーに巨大な「ネプトゥヌスの噴水」をつくらせ、自らの騎馬像をジャンボローニャに建造させた。
コジモ1世はパラッツォ・ヴェッキオの装飾で、祖先の歴史を神話化し、自らの時代を黄金時代として栄光化しようとした。
「五百人広間」はクローナカによってヴェネツィアの「大評議会広間」をもとに設計された。1512年に共和制が崩壊すると、兵士の馬小屋として使われ、1527〜30年の短い共和制復帰の間は合議の会場に戻っていた。
世界美術大全集15 マニエリスム
ヴァザーリ5 1・2・3 人物略歴
「フィレンツェの創建」1563〜65年 板 油彩 モノクロ
フィレンツェ パラッツォ・ヴェッキオ
1540年代にコジモが改造を決めたとき、「自由」を意味するものはすべて撤去された。1542〜43年頃に謁見用の壇が設けられ、会議場から君主の謁見用の広間に変わった。ヴァザーリは天井を7メートルほど高くして、コジモによるトスカーナ栄光の歴史を描くことを計画した。天井の中心には、3つの都市の紋章と21の大小組合の紋章に囲まれたコジモ1世の肖像が描かれた。また天井の「フィレンツェの創建」では古代ローマ皇帝アウグストゥスがコジモに擬せられている。
古代ローマを調べ、ラファエロの教皇栄光化の図像を学んだヴァザーリは、コジモの治世をフィレンツェの歴史の最高の到達点として、再解釈する構想を視覚化するのにふさわしい画家だった。コジモはヴァザーリが描こうとするプログラムをすべて点検した。
古代ローマを調べ、ラファエロの教皇栄光化の図像を学んだヴァザーリは、コジモの治世をフィレンツェの歴史の最高の到達点として、再解釈する構想を視覚化するのにふさわしい画家だった。コジモはヴァザーリが描こうとするプログラムをすべて点検した。
