レヴィ家の饗宴(最後の晩餐)
1571年、ヴェネツィアのドメニコ会修道院の食堂を飾っていたティツィアーノの「最後の晩餐」が火事で焼けてしまったため、代わりに注文された作品。1573年4月に完成している。
記録によると、1573年7月にヴェロネーゼは宗教裁判所で審問を受けている。「最後の晩餐」にふさわしくない人物(矮人の道化、鼻血を出した召使、ドイツ人兵士)が描かれているとして、不適切な部分の描き直しを命じられた。
ヴェロネーゼは題名をより図像上自由な「レヴィ家の饗宴」と変えただけだった。ヴェネツィアがトレント体制の宗教的権威を抑制し、共和国政府の管理下に置こうとしたことによるものらしい。
記録によると、1573年7月にヴェロネーゼは宗教裁判所で審問を受けている。「最後の晩餐」にふさわしくない人物(矮人の道化、鼻血を出した召使、ドイツ人兵士)が描かれているとして、不適切な部分の描き直しを命じられた。
ヴェロネーゼは題名をより図像上自由な「レヴィ家の饗宴」と変えただけだった。ヴェネツィアがトレント体制の宗教的権威を抑制し、共和国政府の管理下に置こうとしたことによるものらしい。
三つのアーチの背景はバルバロとパッラーディオが行った、ウィトルウィウスの記述に基づく古代劇場の舞台背景の復元の試みを意識したものだとされる。中央アーチの広い空によってキリストの姿が強調されている。
1570年代
ヴェロネーゼ Veronese
レヴィ家の饗宴(最後の晩餐)
1573年 カンヴァス 油彩 555×1305cm
ヴェネツィア アカデミア美術館
世界美術大全集13 イタリア・ルネサンス3
1570年代
レヴィ家の饗宴(最後の晩餐)
1573年 カンヴァス 油彩 555×1305cm
ヴェネツィア アカデミア美術館
世界美術大全集13 イタリア・ルネサンス3