最後の審判
ヴァザーリは1533年9月、教皇クレメンス7世(在位1523〜34)がミケランジェロに正面に「最後の審判」、入口上部に「反逆天使の墜落」を描くように命じた、と伝えている。しかし翌年9月にクレメンス7世が死去したため中断された。
次の教皇教皇パウルス3世(在位1534〜49)が改めて「最後の審判」を依頼、1535年9月にカルトンが完成、1536年からフレスコ画制作が始められた。
画面は大きく4つの部分に分けられる。中央のキリストの部分、左の死者が天国へ上昇している部分、右側上部に天国、その下に天国へ昇ろうとして地獄へ落下している部分、最上部半円形の天使たちがキリスト受難の象徴を運んでいる部分。
1530年代
次の教皇教皇パウルス3世(在位1534〜49)が改めて「最後の審判」を依頼、1535年9月にカルトンが完成、1536年からフレスコ画制作が始められた。
画面は大きく4つの部分に分けられる。中央のキリストの部分、左の死者が天国へ上昇している部分、右側上部に天国、その下に天国へ昇ろうとして地獄へ落下している部分、最上部半円形の天使たちがキリスト受難の象徴を運んでいる部分。
1530年代
1541年10月31日に完成したが、賞讃とともに非難も多かった。教皇儀典長が裸体像が多く「教皇礼拝堂用の作品ではなく、風呂屋か宿屋向きの作品だ、と言った」とされ、彼は地獄のミノス王の姿で描かれたという逸話が残されている。
トレント公会議でも、大胆な裸体の姿が非難され、1564年1月この作品の「卑猥な部分は覆うべきだ」との勅令が出された。ミケランジェロの死の1ヵ月前だった。ミケランジェロ Michelangelo
最後の審判
1535〜41年 フレスコ 13.7×12.2m
ヴァティカーノ宮システィーナ礼拝堂
世界美術大全集12 イタリア・ルネサンス2
トレント公会議でも、大胆な裸体の姿が非難され、1564年1月この作品の「卑猥な部分は覆うべきだ」との勅令が出された。ミケランジェロの死の1ヵ月前だった。
最後の審判
1535〜41年 フレスコ 13.7×12.2m
ヴァティカーノ宮システィーナ礼拝堂
世界美術大全集12 イタリア・ルネサンス2