ピエタ
北イタリアのコモ湖近くの町で生まれ、ミラノまたはコモ湖周辺で画家として活動していたらしい。1346年フィレンツェの医師・薬種商組合の記録に名前が見られる。ロンバルディア地方で活動していたフィレンツェ派、ジョッテスキの影響を受けるとともに、ミラノでアヴィニョンからのシエナ派、国際ゴシックの影響も受けていた。
その後いったんロンバルディアへ戻っていたらしい。1363年フィレンツェの記録に再び登場する。フィレンツェでは「ペスト後」の絵画が主流となっていたが、ジョヴァンニは自然で感情豊かな作品を描いている。この頃フィレンツェで自然主義の作品を描いていたのはジョッティーノ、アーニョロ・ガッディだけだった。ジョヴァンニを含む3人は、1369年教皇ウルバヌス5世の依頼を受けてローマへ行っている。1370年ジョヴァンニはローマからアヴィニョンへ向かい、その後フィレンツェに戻ることはなかった。
死せるキリストとそれを左側で支える聖母マリア、右側で支えるマグダラのマリア、背後に福音書記者聖ヨハネ。聖母やマグダラのマリアの表情、キリストの肉体、右手などの写実的な表現はこの画家の芸術的形成にフランスのゴシック文化が影響していることを示している。
1360年代
ジョヴァンニ・ダ・ミラノ Giovanni da Milano
ピエタ
1365年 板 テンペラ 122×58cm
フィレンツェ アカデミア美術館
世界美術大全集10 ゴシック2
その後いったんロンバルディアへ戻っていたらしい。1363年フィレンツェの記録に再び登場する。フィレンツェでは「ペスト後」の絵画が主流となっていたが、ジョヴァンニは自然で感情豊かな作品を描いている。この頃フィレンツェで自然主義の作品を描いていたのはジョッティーノ、アーニョロ・ガッディだけだった。ジョヴァンニを含む3人は、1369年教皇ウルバヌス5世の依頼を受けてローマへ行っている。1370年ジョヴァンニはローマからアヴィニョンへ向かい、その後フィレンツェに戻ることはなかった。
死せるキリストとそれを左側で支える聖母マリア、右側で支えるマグダラのマリア、背後に福音書記者聖ヨハネ。聖母やマグダラのマリアの表情、キリストの肉体、右手などの写実的な表現はこの画家の芸術的形成にフランスのゴシック文化が影響していることを示している。
1360年代
ピエタ
1365年 板 テンペラ 122×58cm
フィレンツェ アカデミア美術館
世界美術大全集10 ゴシック2