
シャルル突進公とマクシミリアン
フィリップ善良公を継いだシャルル突進公は、ブルゴーニュ本領とネーデルラントをつなぐために、ロレーヌ地方を併合しようとしたが、1477年のナンシーの戦いで戦死した。44歳。公国の大部分の領地は突進公の一人娘マリー・ド・ブルゴーニュが相続し、1482年、公女の死によって、夫マクシミリアンを通してハプスブルク家の家領となった。マクシミリアンは、1482年と1493年のアラスとサンリスの和議で、息子フィリップのネーデルラント領有権を確保し、フィリップの早逝(1506年)後は孫のカール(のちの神聖ローマ帝国皇帝)が相続した。
1480年代
世界美術大全集14 北方ルネサンス
1480年代
世界美術大全集14 北方ルネサンス
1486年、フリードリヒ3世存命中にドイツ王に選出されていたマクシミリアンは、神聖ローマ帝国皇帝となるためにローマで教皇による戴冠を受ける必要があった。しかしローマへ行くことができなかったマクシミリアンは、1508年トレントで、教皇の戴冠を受けないまま、ローマ皇帝への即位を布告した。
マリー・ド・ブルゴーニュとの結婚で「中世の秋」の文化を知ったマクシミリアンは、ローマでの戴冠という意識と、1493年にミラノ公女、スフォルツァ家のビアンカ・マリアと再婚したことでイタリア・ルネサンスへの意識を強めたとされる。
マクシミリアンはスイス誓約同盟との戦いなどには敗れたが、結婚政策によって統一スペイン、ボヘミア・ハンガリーをハプスブルク家の領地に併合させることになった。
マリー・ド・ブルゴーニュとの結婚で「中世の秋」の文化を知ったマクシミリアンは、ローマでの戴冠という意識と、1493年にミラノ公女、スフォルツァ家のビアンカ・マリアと再婚したことでイタリア・ルネサンスへの意識を強めたとされる。
マクシミリアンはスイス誓約同盟との戦いなどには敗れたが、結婚政策によって統一スペイン、ボヘミア・ハンガリーをハプスブルク家の領地に併合させることになった。