
スウェーデンとアルトマルク講和
1592年、スウェーデン国王ヨハン3世が死去して、ジグムント3世(ポーランド王)がスウェーデン王位を継承した。しかし、スウェーデンはルター派でカトリックの国王に対する反発が強かった。1598年、王は軍を送って反対派を抑えようとしたが敗れ、翌年スウェーデン議会は国王の廃位を決議した。
1600年、王位をめぐる争いは、リヴォニアでのスウェーデンと「共和国(ポーランド)」の戦争になった。ポーランドが東南方でオスマン帝国との闘いを続けていたこともあって、スウェーデン軍(グスタフ・アドルフ)はリヴォニアを占領し(1617〜22年)、26年にはヴィスワ川下流域に侵攻した。ポーランドは1627年のオリヴァ沖海戦で勝利したが、29年にはグシノで敗れ、アルトマルクで屈辱的な講和を結んだ。
1600年、王位をめぐる争いは、リヴォニアでのスウェーデンと「共和国(ポーランド)」の戦争になった。ポーランドが東南方でオスマン帝国との闘いを続けていたこともあって、スウェーデン軍(グスタフ・アドルフ)はリヴォニアを占領し(1617〜22年)、26年にはヴィスワ川下流域に侵攻した。ポーランドは1627年のオリヴァ沖海戦で勝利したが、29年にはグシノで敗れ、アルトマルクで屈辱的な講和を結んだ。
スウェーデンは西ドヴィナ川以北のリヴォニアの主要部分を確保し、グダンスクからの関税徴収権を得た。
プロイセン公国
1605年、ジグムント3世は、精神を病んだプロイセン公アルブレヒトの後見人をブランデンブルク選帝侯に委ねた。1618年、アルブレヒトが継嗣なく死去し、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公位を継承した。これによって、西ポモージェと王領プロイセンを間に挟む、ブランデンブルク・プロイセン同君連合(ホーエンツォレルン家)が成立した。
1620年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
プロイセン公国
1605年、ジグムント3世は、精神を病んだプロイセン公アルブレヒトの後見人をブランデンブルク選帝侯に委ねた。1618年、アルブレヒトが継嗣なく死去し、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公位を継承した。これによって、西ポモージェと王領プロイセンを間に挟む、ブランデンブルク・プロイセン同君連合(ホーエンツォレルン家)が成立した。
1620年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史