
マントヴァ継承戦争(第2次モンフェッラート戦争)
ヴァルテッリーナ戦争が終息してすぐ、マントヴァ継承戦争(第2次モンフェッラート戦争)が始まった。
フェルディナンドを継いでマントヴァ公兼モンフェッラート公となったヴィンチェンツォ2世(在位1626〜27)には嗣子がなく、分家フランスのゴンヅァーガ・ヌヴェール家のカルロ(シャルル)を相続者に決めていた。1627年、ヴィンチェンツォ2世が死去すると、サヴォイア公が再びモンフェッラート公の相続権を主張し、スペインもフランスが推すカルロの公位継承に反対した。今回はサヴォイア公とミラノ公国総督が協定を結んで、それぞれモンフェッラートに軍を進めた。
フランスはモンフェッラート支援に動き、マントヴァのカルロの軍とともに、ミラノ公国を東西から挟撃しようとした。フランス軍に数ヶ所を占領されたサヴォイア公国は、領土上の取引をしてフランス側についた。
フェルディナンドを継いでマントヴァ公兼モンフェッラート公となったヴィンチェンツォ2世(在位1626〜27)には嗣子がなく、分家フランスのゴンヅァーガ・ヌヴェール家のカルロ(シャルル)を相続者に決めていた。1627年、ヴィンチェンツォ2世が死去すると、サヴォイア公が再びモンフェッラート公の相続権を主張し、スペインもフランスが推すカルロの公位継承に反対した。今回はサヴォイア公とミラノ公国総督が協定を結んで、それぞれモンフェッラートに軍を進めた。
フランスはモンフェッラート支援に動き、マントヴァのカルロの軍とともに、ミラノ公国を東西から挟撃しようとした。フランス軍に数ヶ所を占領されたサヴォイア公国は、領土上の取引をしてフランス側についた。
1629年、マントヴァの宗主権を主張する皇帝が3万人の兵を投入した。皇帝軍はマントヴァを数ヶ月包囲し、1630年7月、市内に突入して、殺戮・略奪をおこなった。北イタリアでのペストの流行もあって、マントヴァの人口は3万人から1万人未満に減少した。
グスタフ・アドルフのスウェーデン軍が、ドイツに侵入したため、皇帝軍は北への移動を迫られた。北イタリアでの争いは、1631年のケラスコ協定で収束が図られた。カルロはモンフェッラートの一部をサヴォイア公国に譲渡することで、マントヴァ公国とモンフェッラート公国の相続を認められ、フランスはトリノ近くのピネローロを獲得し、モンフェッラート領内カサーレに軍を駐屯する権利を得た。
1620年代
世界各国史15 イタリア史
グスタフ・アドルフのスウェーデン軍が、ドイツに侵入したため、皇帝軍は北への移動を迫られた。北イタリアでの争いは、1631年のケラスコ協定で収束が図られた。カルロはモンフェッラートの一部をサヴォイア公国に譲渡することで、マントヴァ公国とモンフェッラート公国の相続を認められ、フランスはトリノ近くのピネローロを獲得し、モンフェッラート領内カサーレに軍を駐屯する権利を得た。
1620年代
世界各国史15 イタリア史