
チャールズ1世即位
1625年3月ジェイムズ1世が死去し、息子がチャールズ1世(在位1625〜49)として即位した。チャールズも王権神授説を信奉し、議会の同意を得ずに外交をおこない、臨時の課税を強行した。
1628年5月、議会はエドワード・クックを中心に「権利の請願」を起草し、国王に提出した。全11条で、マグナ・カルタ以来の「イングランドの自由」を根拠に、援助金の強制、恣意的な課税、不法な逮捕・投獄、兵士の民家宿泊強制、一般市民への軍法の適用などを禁止するよう、国王に求めている。
国王はいったん「権利の請願」を受諾したが、翌1629年3月に議会を解散し、反対派を投獄して以後11年間議会を開催しない専制政治をおこなった。この政治を支えたのが、ウィリアム・ロード(1628年ロンドン主教、1633年カンタベリ大司教)とトマス・ウェントワース(1632年アイルランド総督、1640年ストラフォード伯)。このロード・ストラフォード体制で「徹底」政策を進め、星室裁判所と高等宗務官裁判所という国王大権裁判所によって、反対派やピューリタンを弾圧していった。
1620年代
世界各国史11 イギリス史
1628年5月、議会はエドワード・クックを中心に「権利の請願」を起草し、国王に提出した。全11条で、マグナ・カルタ以来の「イングランドの自由」を根拠に、援助金の強制、恣意的な課税、不法な逮捕・投獄、兵士の民家宿泊強制、一般市民への軍法の適用などを禁止するよう、国王に求めている。
国王はいったん「権利の請願」を受諾したが、翌1629年3月に議会を解散し、反対派を投獄して以後11年間議会を開催しない専制政治をおこなった。この政治を支えたのが、ウィリアム・ロード(1628年ロンドン主教、1633年カンタベリ大司教)とトマス・ウェントワース(1632年アイルランド総督、1640年ストラフォード伯)。このロード・ストラフォード体制で「徹底」政策を進め、星室裁判所と高等宗務官裁判所という国王大権裁判所によって、反対派やピューリタンを弾圧していった。
1620年代
世界各国史11 イギリス史
王は財政難を克服するために、議会の同意を得ない課税を始めた。国王大権によって関税(トン税・ポンド税)を強化、騎士強制金を新設、独占権の濫発などで人々の反発を招いた。1635年には、海港都市に限定されていた船舶税が全国に拡大されると、支払い拒否の闘争も始まった。
さらに1625年に、チャールズ1世はフランスからカトリックの王妃を迎え、親カトリック政策を始めた。カトリックの俗人が政府高官に任用され、教皇庁の代理部がロンドンに設置され、セント・ジェイムズ宮殿内にバロック風の礼拝堂が建設された。チャールズのカトリック復活の意図が疑われた。
1633年カンタベリ大司教となったロードは、原始キリスト教から「使徒継続性」によって国教会の正統性を基礎づけようとした、とされる。しかし、ロード派と呼ばれる聖職者たちは、国教会の改変を進め、その過程でピューリタンを弾圧した。カトリックに近い儀式が導入されて、さらに人々を刺激した。
教義でも、「人間の自由意志」を主張するアルミニウス主義的な神学が強調され、ピューリタンの多くが信奉する、カルヴァン主義の救済予定説・神の絶対意志と対立することになった。
さらに1625年に、チャールズ1世はフランスからカトリックの王妃を迎え、親カトリック政策を始めた。カトリックの俗人が政府高官に任用され、教皇庁の代理部がロンドンに設置され、セント・ジェイムズ宮殿内にバロック風の礼拝堂が建設された。チャールズのカトリック復活の意図が疑われた。
1633年カンタベリ大司教となったロードは、原始キリスト教から「使徒継続性」によって国教会の正統性を基礎づけようとした、とされる。しかし、ロード派と呼ばれる聖職者たちは、国教会の改変を進め、その過程でピューリタンを弾圧した。カトリックに近い儀式が導入されて、さらに人々を刺激した。
教義でも、「人間の自由意志」を主張するアルミニウス主義的な神学が強調され、ピューリタンの多くが信奉する、カルヴァン主義の救済予定説・神の絶対意志と対立することになった。