
フェリーペ4世即位 寵臣オリバーレス伯公爵
1598年に即位したフェリーペ3世(在位1598〜1621)は政治に直接関与しなくなり、国政は王の信頼を得た側近たちに委ねられるようになった。17世紀スペインの寵臣政治が始まった。
レルマ公爵は、宮廷を一時(1601〜06年)バリャドリーに移し、1609年、事実上独立していたオランダと12年の休戦協定を結び、1609〜14年にモリスコを追放した。モリスコの追放はカトリックの宗教的一体性を強めたが、30万人の人口を失うことになった。とくにバレンシアは12万人、アラゴンは6万人の農民を失い、経済に深刻な打撃となった。そのほかは自らと家門の私腹を肥やすことに努めた。
フェリーペ4世(在位1621〜65)の時代、20年以上にわたって、専横的権力を握ったのはオリバーレス伯公爵だった。フランスで宰相リシュリューが絶対王権の確立を図っていた頃、オリバーレスも行財政改革を進めようとした。前王時代の寵臣たちの腐敗を糾弾し、1622年には官僚の就任時と退任時の資産報告求めるなど、綱紀粛正を図った。また人々の全般的健全化をめざす改革評議会を設置し、奢侈品の禁止、売春宿や劇場の閉鎖などをおこなった。
レルマ公爵は、宮廷を一時(1601〜06年)バリャドリーに移し、1609年、事実上独立していたオランダと12年の休戦協定を結び、1609〜14年にモリスコを追放した。モリスコの追放はカトリックの宗教的一体性を強めたが、30万人の人口を失うことになった。とくにバレンシアは12万人、アラゴンは6万人の農民を失い、経済に深刻な打撃となった。そのほかは自らと家門の私腹を肥やすことに努めた。
フェリーペ4世(在位1621〜65)の時代、20年以上にわたって、専横的権力を握ったのはオリバーレス伯公爵だった。フランスで宰相リシュリューが絶対王権の確立を図っていた頃、オリバーレスも行財政改革を進めようとした。前王時代の寵臣たちの腐敗を糾弾し、1622年には官僚の就任時と退任時の資産報告求めるなど、綱紀粛正を図った。また人々の全般的健全化をめざす改革評議会を設置し、奢侈品の禁止、売春宿や劇場の閉鎖などをおこなった。
また商業活動を活発化させるために、北ヨーロッパとの交易をおこなう新キリスト教徒のポルトガル商人・金融業者を重視し、「血の純潔」規約には批判的立場をとった。
スペイン王国を構成する諸国の負担には大きな格差があった。1616年の王室収入の負担金はカスティーリャが約1400万ドゥカード、アラゴン連合王国は全体で20万ドゥカードだった。オリバーレスはこれらの諸国による「複合王政」を廃し、「カスティーリャの形式と法にのっとって」諸国を統合する、中央集権的王政の実現をめざした。カスティーリャ以外の諸国からの兵員徴募や収入増加を図った「軍隊統合計画」が1626年に立案された。
このような改革と同時に、スペインの「名声」を維持するための対外政策もおこなわれた。1621年には休戦協定が切れたオランダとの戦いを再開した。30年戦争でスウェーデン軍が34年にオーストリア・スペインの連合軍に敗れると、ハプスブルク家が優勢になるのを恐れたフランスは翌年、プロテスタント側に立って、スペインに宣戦を布告した。
1620年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
スペイン王国を構成する諸国の負担には大きな格差があった。1616年の王室収入の負担金はカスティーリャが約1400万ドゥカード、アラゴン連合王国は全体で20万ドゥカードだった。オリバーレスはこれらの諸国による「複合王政」を廃し、「カスティーリャの形式と法にのっとって」諸国を統合する、中央集権的王政の実現をめざした。カスティーリャ以外の諸国からの兵員徴募や収入増加を図った「軍隊統合計画」が1626年に立案された。
このような改革と同時に、スペインの「名声」を維持するための対外政策もおこなわれた。1621年には休戦協定が切れたオランダとの戦いを再開した。30年戦争でスウェーデン軍が34年にオーストリア・スペインの連合軍に敗れると、ハプスブルク家が優勢になるのを恐れたフランスは翌年、プロテスタント側に立って、スペインに宣戦を布告した。
1620年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史