
30年戦争 ボヘミア・プファルツ戦争 イタリア ヴァルテッリーナ戦争
30年戦争 第1段階 ボヘミア・プファルツ戦争(1618〜23)
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された頃、フェルディナントはフランクフルトでマティアスを継いで皇帝(フェルディナント2世 皇帝在位1619〜37)に選出された。皇帝はスペイン、旧教連盟と同盟を結び、ルター派のザクセンも皇帝側についた。一方ボヘミアは新教同盟や外国の援助獲得に失敗していた。1620年11月、両軍がプラハ近郊のヴァイセルベルクで戦い、ボヘミアの壊滅的な敗北に終わった。
フリードリヒ5世はボヘミア王を追われ、反乱貴族は処刑・追放され、その土地・財産は没収された。ボヘミア国内のカトリック化が断行され、従来の体制は大きく変えられた。
1621年秋、ティリー将軍の旧教連盟軍とスピノラのスペイン軍はプファルツに侵攻し、そこを占領した。これによってバイエルン大公マクシミリアン1世は、皇帝との約束によってプファルツ選帝侯位を獲得し、スペインは対オランダ戦争にとっての重要なルート、北イタリアとネーデルラントを結ぶ「スペイン街道」を確保できた。
1620年代
世界各国史13 ドイツ史
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された頃、フェルディナントはフランクフルトでマティアスを継いで皇帝(フェルディナント2世 皇帝在位1619〜37)に選出された。皇帝はスペイン、旧教連盟と同盟を結び、ルター派のザクセンも皇帝側についた。一方ボヘミアは新教同盟や外国の援助獲得に失敗していた。1620年11月、両軍がプラハ近郊のヴァイセルベルクで戦い、ボヘミアの壊滅的な敗北に終わった。
フリードリヒ5世はボヘミア王を追われ、反乱貴族は処刑・追放され、その土地・財産は没収された。ボヘミア国内のカトリック化が断行され、従来の体制は大きく変えられた。
1621年秋、ティリー将軍の旧教連盟軍とスピノラのスペイン軍はプファルツに侵攻し、そこを占領した。これによってバイエルン大公マクシミリアン1世は、皇帝との約束によってプファルツ選帝侯位を獲得し、スペインは対オランダ戦争にとっての重要なルート、北イタリアとネーデルラントを結ぶ「スペイン街道」を確保できた。
1620年代
世界各国史13 ドイツ史
スペインは同じハプスブルク家の神聖ローマ皇帝の側に立って30年戦争に参戦した。サヴォイア公との関係が悪化していた1620年頃、スペインの軍事輸送路「スペイン街道」は、ミラノからコモ湖東側のヴァルテッリーナ渓谷を通り、ステルヴィオ峠を越えてチロルに達していた。そこでウィーンからの皇帝軍と合流して、西へ進んでフランドルに向かっていた。
ヴァルテッリーナ地帯にはカトリック系住民が住んでいたが、プロテスタント系のスイスの自治邦グラウビュンデン(グリゾン)に属していて、カトリック系住民は抑圧されていた。1620年7月、カトリック系住民はミラノ総督の支援を受けて、数百人のプロテスタントを殺害する「聖なる虐殺」事件を起こした。総督はイタリア兵を含むスペイン軍をグラウビュンデンに配置し、スペイン街道の安全を確保すると同時にヴェネツィアの孤立化を図った。ヴェネツィアは反スペインの態度を強め、フランスとサヴォイア公国は共同して、1625年スペインの軍事輸送の中継地ジェノヴァに攻撃を加えた。翌26年スペインとフランスの秘かな交渉で、ヴァルテッリーナをグラウビュンデン領に戻し、住民の信仰の自由を保障するという妥協で終息した。
世界各国史15 イタリア史
ヴァルテッリーナ地帯にはカトリック系住民が住んでいたが、プロテスタント系のスイスの自治邦グラウビュンデン(グリゾン)に属していて、カトリック系住民は抑圧されていた。1620年7月、カトリック系住民はミラノ総督の支援を受けて、数百人のプロテスタントを殺害する「聖なる虐殺」事件を起こした。総督はイタリア兵を含むスペイン軍をグラウビュンデンに配置し、スペイン街道の安全を確保すると同時にヴェネツィアの孤立化を図った。ヴェネツィアは反スペインの態度を強め、フランスとサヴォイア公国は共同して、1625年スペインの軍事輸送の中継地ジェノヴァに攻撃を加えた。翌26年スペインとフランスの秘かな交渉で、ヴァルテッリーナをグラウビュンデン領に戻し、住民の信仰の自由を保障するという妥協で終息した。
世界各国史15 イタリア史