
ピルグリム・ファーザーズ プリマス植民地を開拓
反カトリックの意識が強まるなか、ピューリタンはステュアート朝の王、ジェイムズ1世、チャールズ1世の宗教政策に危機感を抱いていた。議員の中にもピューリタンの信奉者はいたが、1629年の議会解散後もその支持者は増えていった。反カトリック的な主張を展開し、儀式より説教を重視して、説教が不得意な国教会の牧師に代わり教区レヴェルまで浸透していった。ピューリタンの支持者には、絶対王政の将来に不安を感じていた一部のジェントリとヨーマン、特権商人に不満をもっていた新興商人、職人・手工業者・小売商人などがいた。なかでも議員に選出されることが多いジェントリに広まったことは革命の前提として重要だった。議員の多くは国教会を支持していたが、国教会の改変に反発してピューリタンに近づく人々も増えていた。
反対派ピューリタンのネットワークは、国内だけでなく、新大陸やオランダにも伸びていた。1607年、ジェイムズタウンがヴァージニア会社によって建設された。
1620年代
世界各国史11 イギリス史
反対派ピューリタンのネットワークは、国内だけでなく、新大陸やオランダにも伸びていた。1607年、ジェイムズタウンがヴァージニア会社によって建設された。
1620年代
世界各国史11 イギリス史
1627年にはバルバドス島(のちに砂糖プランテーション)が領有された。これらは企業家的ジェントリがロンドン商人たちと提携して進められることが多かった。
ピューリタンによる植民活動は、1620年ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々が、メイフラワ号に乗ってプリマス植民地を開拓した。1629年からは、ピューリタンの指導者に率いられた人々が、マサチューセッツ湾植民地を建設した。ここには1630年代を通じて約2万人のイギリス人が「信仰の自由」を求めて渡航し、「ニュー・イングランド」と呼ばれる植民地になった。
移民たちは本国と切り離されたわけではなかった。手紙や書物、新来の移民や特使がもたらすニュースによって、本国の情報を得ていた。ピューリタン革命が始まって、議会派を助けるために、3〜4千人が帰国したとされる。
ピューリタンの一部は、プロテスタントの同盟国オランダに亡命した。1630年代に亡命したピューリタンの聖職者たちの多くは、革命が始まると帰国して指導者になった。ピューリタンたちは1640年代になると、いっせいに活発に活動し始めた。
ピューリタンによる植民活動は、1620年ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々が、メイフラワ号に乗ってプリマス植民地を開拓した。1629年からは、ピューリタンの指導者に率いられた人々が、マサチューセッツ湾植民地を建設した。ここには1630年代を通じて約2万人のイギリス人が「信仰の自由」を求めて渡航し、「ニュー・イングランド」と呼ばれる植民地になった。
移民たちは本国と切り離されたわけではなかった。手紙や書物、新来の移民や特使がもたらすニュースによって、本国の情報を得ていた。ピューリタン革命が始まって、議会派を助けるために、3〜4千人が帰国したとされる。
ピューリタンの一部は、プロテスタントの同盟国オランダに亡命した。1630年代に亡命したピューリタンの聖職者たちの多くは、革命が始まると帰国して指導者になった。ピューリタンたちは1640年代になると、いっせいに活発に活動し始めた。