
ビーラー・ホラの戦い
カトリックの守護者、ハプスブルク家はボヘミアのプロテスタント貴族の行動(1618年)を看過できなかった。1620年プラハの西、ビーラー・ホラでの戦いになったが、諸外国からの援軍が来なかったプロテスタント貴族は、スペインからの財政的支援を受けた皇帝軍・バイエルン軍を前に、2時間ほどで潰走させられてしまった。
戦いは短かったが、その影響は大きかった。反乱の指導者は処刑され、プロテスタント貴族の所領は没収された。その所領は新たに移住してきた外国人(ドイツ人、スペイン人、イタリア人など)やカトリック教会に配分・売却された。プロテスタントの聖職者は追放され、多くの亡命者がでて、ボヘミア・モラヴィア国内ではカトリック以外の信仰は禁止された。
戦いは短かったが、その影響は大きかった。反乱の指導者は処刑され、プロテスタント貴族の所領は没収された。その所領は新たに移住してきた外国人(ドイツ人、スペイン人、イタリア人など)やカトリック教会に配分・売却された。プロテスタントの聖職者は追放され、多くの亡命者がでて、ボヘミア・モラヴィア国内ではカトリック以外の信仰は禁止された。
1627年には「改訂領邦条例」が発布され、ボヘミア王位はハプスブルク家の男子継承者に世襲されること、ボヘミア国会は課税承認権を除くほとんどの権利を失うこと、ドイツ語をチェコ語とともに公用語とすることが定められた。ボヘミアのカトリック化が決定的となり、そのドイツ的性格も強められることになった。
フェルディナントはオーストリアでもビーラー・ホラでの戦勝によってプロテスタント諸侯に圧力を加え、オーストリアのプロテスタントはケルンテンの山間部などに少数残るだけになった。
1620年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
フェルディナントはオーストリアでもビーラー・ホラでの戦勝によってプロテスタント諸侯に圧力を加え、オーストリアのプロテスタントはケルンテンの山間部などに少数残るだけになった。
1620年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史