
ジグムント3世ヴァーザ カトリック化政策
1586年ステファン・バートリが死去して「共和国」は空位期にはいった。ハプスブルク家はオーストリア大公マクシミリアンを候補に立て、それを一部のマグナートが支持した。大法官ザモイスキを中心とする勢力は、87年8月にスウェーデン国王ヨハン3世の息子で、母カタジナを通じてヤギェウォ家の血を引くジグムント・ヴァーザを選出して二重選挙になった。マクシミリアンは軍を率いてポーランドに入ったが、88年1月、ザモイスキ軍に敗れて捕虜となり、翌年両派が和解した。
ジグムント3世ヴァーザ(在位1587〜1632)は王位に就いたが、スウェーデン王位に固執し、親ハプスブルクでスペイン型絶対王政を理想とするなど、ザモイスキ側と考えが合わなかった。さらにポーランド王位をハプスブルク家に譲る交渉を秘密裏に進めていたことがわかり、両者の溝が深まった。1592年の「審問議会」で国王は非を認めたが、シュラフタの不信感は強まった。またジグムント3世は、イエズス会士を徴用し、国王代官による教会裁判判決の執行を再開させ(92年)、合同教会を創設する(96年)など強硬なカトリック化政策をとったことで、プロテスタントや正教会のシュラフタの反発が強まった。1605年、ヤン・ザモイスキは議会でシュラフタの権利を擁護する演説をおこなって、死去した。
1580年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
ジグムント3世ヴァーザ(在位1587〜1632)は王位に就いたが、スウェーデン王位に固執し、親ハプスブルクでスペイン型絶対王政を理想とするなど、ザモイスキ側と考えが合わなかった。さらにポーランド王位をハプスブルク家に譲る交渉を秘密裏に進めていたことがわかり、両者の溝が深まった。1592年の「審問議会」で国王は非を認めたが、シュラフタの不信感は強まった。またジグムント3世は、イエズス会士を徴用し、国王代官による教会裁判判決の執行を再開させ(92年)、合同教会を創設する(96年)など強硬なカトリック化政策をとったことで、プロテスタントや正教会のシュラフタの反発が強まった。1605年、ヤン・ザモイスキは議会でシュラフタの権利を擁護する演説をおこなって、死去した。
1580年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1606年2月、クラクフ県知事ゼブジドフスキが率いるマウォポルスカのシュラフタは、国王への異議申し立てのために全国のシュラフタに集結を呼びかけた。数千人が集まったが、国王側は強硬な姿勢を続けた。8月、数万人の反王党派貴族が武装して集まるロコシュを結成し、王権の制限やイエズス会士の追放などを要求した。王党派も対抗ロコシュを組んで内戦状態になった。1607年国王軍が反王党派ロコシュを破り、翌年ゼブジドフスキが国王に謝罪した。反王党派が敗れたことで、改革派シュラフタは勢力を失い、国王も王権強化策からの転換を迫られた。勢力を伸ばしたのはマグナート層で、以後「シュラフタ民主制」から「マグナート寡頭制」へ移ることになった。
ルブリン合同(1569年)により、国土の西南端にあるクラクフは統治に不便となった。1596年のヴァヴェル城火災をきっかけにワルシャワに拠点を移す準備が進められ、1611年以降国王宮廷はワルシャワに定着した。クラクフでは国王の戴冠式などがおこなわれ、公式には首都を維持した。
イエズス会を中心に東方への勢力拡大をはかるカトリック教会は、教会合同によって正教徒を統合しようとし、これによる王権強化を期待したジグムント3世も支持した。1596年、東方教会の典礼を維持したままローマ教皇の権威を認める合同教会が成立した。しかし、正教徒の多くはこれを認めず、反発を強めた。合同教会は「共和国」東部にあらたな宗教的対立を生み出すことになった。
ルブリン合同(1569年)により、国土の西南端にあるクラクフは統治に不便となった。1596年のヴァヴェル城火災をきっかけにワルシャワに拠点を移す準備が進められ、1611年以降国王宮廷はワルシャワに定着した。クラクフでは国王の戴冠式などがおこなわれ、公式には首都を維持した。
イエズス会を中心に東方への勢力拡大をはかるカトリック教会は、教会合同によって正教徒を統合しようとし、これによる王権強化を期待したジグムント3世も支持した。1596年、東方教会の典礼を維持したままローマ教皇の権威を認める合同教会が成立した。しかし、正教徒の多くはこれを認めず、反発を強めた。合同教会は「共和国」東部にあらたな宗教的対立を生み出すことになった。
