
ボリス・ゴドゥノフ 実権を握る
雷帝の息子フョードルには自ら統治する能力がなかった。彼の名前で権力を握ったのは、フョードルの妻イリーナの兄ボリス・ゴドゥノフだった。有能な長男イヴァンがいたため、イリーナがフョードルと結婚した1575年頃、フョードルが帝位を継ぐ可能性はほとんどなかった。
1584年イヴァン雷帝が死去し、その3年前にイヴァンが亡くなっていたため、フョードルが帝位を継いだ。ボリスはツァーリの義兄として権力争いに勝利して、1586〜87年に実権を握った。1598年フョードルが死去してリューリク朝が絶えると、ボリスは全国会議を召集してツァーリに選出された。
1591年には南方の備えを厚くして、クリミア・タタールの侵入を阻止した。シベリア方面への進出は順調で、西方でもポーランドの攻勢を防ぎ、スウェーデンからは若干の領土を取り返している。外交面での最大の成果は、1589年に総主教座を創設したことだった。ビザンツ帝国滅亡後、モスクワは全正教世界の中心と考えられていて、修道士フィロフェイの「モスクワ・第三のローマ」にもそれは表されている。コンスタンティノープル総主教のモスクワ訪問を機に正式に提起して承認された。
1584年イヴァン雷帝が死去し、その3年前にイヴァンが亡くなっていたため、フョードルが帝位を継いだ。ボリスはツァーリの義兄として権力争いに勝利して、1586〜87年に実権を握った。1598年フョードルが死去してリューリク朝が絶えると、ボリスは全国会議を召集してツァーリに選出された。
1591年には南方の備えを厚くして、クリミア・タタールの侵入を阻止した。シベリア方面への進出は順調で、西方でもポーランドの攻勢を防ぎ、スウェーデンからは若干の領土を取り返している。外交面での最大の成果は、1589年に総主教座を創設したことだった。ビザンツ帝国滅亡後、モスクワは全正教世界の中心と考えられていて、修道士フィロフェイの「モスクワ・第三のローマ」にもそれは表されている。コンスタンティノープル総主教のモスクワ訪問を機に正式に提起して承認された。
内政の最大の課題は雷帝期に疲弊した国土の復興だった。長期の戦いと農民の逃亡に苦しんでいた士族・勤務人層の救済が急がれた。ボリスは1597年11月の法令で、過去5年間に逃亡した農民を捜索して旧主のもとに連れ戻すことを定めるなど、農奴制へと進める政策をとった。都市でも国税を負担するポサード民が大領主の「託身民」となることを禁じ、租税収入の減少を防いだ。
ボリスの統治は順調に進んだように見える。全国会議でツァーリに選出されたことも不自然ではなく、門閥貴族との摩擦もおこしてはいない。
しかし、1601〜03年に大飢饉がロシアを襲った。ボリスは穀物の固定価格制を導入し、困窮者に補助金を与え、一時的にユーリーの日の規定を復活させて、領主が養えない農民がそのもとを去ることを許した。ボリスはさまざまな策をとったが、大飢饉に対して全く効果がなかった。正当な資格もなく(血筋)皇帝位に就いたボリスは、人々を満足させることができず、恨みをかうようになった。
1580年代
世界各国史22 ロシア史
ボリスの統治は順調に進んだように見える。全国会議でツァーリに選出されたことも不自然ではなく、門閥貴族との摩擦もおこしてはいない。
しかし、1601〜03年に大飢饉がロシアを襲った。ボリスは穀物の固定価格制を導入し、困窮者に補助金を与え、一時的にユーリーの日の規定を復活させて、領主が養えない農民がそのもとを去ることを許した。ボリスはさまざまな策をとったが、大飢饉に対して全く効果がなかった。正当な資格もなく(血筋)皇帝位に就いたボリスは、人々を満足させることができず、恨みをかうようになった。
1580年代
世界各国史22 ロシア史