
イヴァン4世(雷帝)死去 フョードル1世が継ぐ
1575年、イヴァン4世は玉座を降り、自らはモスクワ公を名乗って、モスクワ大公位にはシメオン・ベクブラートヴィチというタタール人を就けた。シメオンはチンギス・ハンの直系でモスクワの支配を受け入れたカシモフのハンだった。理由は不明だが、オプリーチニナのような分領で専制支配をおこなおうとしたと考えられている。しかしこの体制は1年しか続かず、イヴァンは大公位に復帰し、シメオンにはトヴェーリの分領が与えられた。
ポーランドとリトアニアは1569年のルブリンの合同の後「共和国」と呼ばれていた。1572年のヤギェウォ朝断絶後の空位期にロシア軍は攻勢を強めた。しかし1576年、トランシルヴァニア公ステファン・バトーリがポーランド王位に就いて、78年から反撃が始まった。翌年にはスウェーデンも攻撃を再開し、ポロツクとヴェリーキエ・ルーキがポーランド軍に占領され、1581年にはプスコフが攻撃された。
1582年ロシアはポーランドと翌年スウェーデンと講和を結んだ。ロシアはリヴォニアとベラルーシでの占領地をポーランドに返し、フィンランド湾岸の大部分をスウェーデンに譲った。1558年からの戦争は損害だけを残して終わった。
1580年代
世界各国史22 ロシア史
ポーランドとリトアニアは1569年のルブリンの合同の後「共和国」と呼ばれていた。1572年のヤギェウォ朝断絶後の空位期にロシア軍は攻勢を強めた。しかし1576年、トランシルヴァニア公ステファン・バトーリがポーランド王位に就いて、78年から反撃が始まった。翌年にはスウェーデンも攻撃を再開し、ポロツクとヴェリーキエ・ルーキがポーランド軍に占領され、1581年にはプスコフが攻撃された。
1582年ロシアはポーランドと翌年スウェーデンと講和を結んだ。ロシアはリヴォニアとベラルーシでの占領地をポーランドに返し、フィンランド湾岸の大部分をスウェーデンに譲った。1558年からの戦争は損害だけを残して終わった。
1580年代
世界各国史22 ロシア史
東方ではシベリア・ハン国を併合した。1550年代にはモスクワの権威を認めていたが、60年代のクチュム・ハンの頃に敵対的になっていた。イヴァンは西ウラル地方で製塩業などを営むストローガノフ家を介して、1581年頃カザーク隊長のエルマークと約800名の部隊を派遣した。エルマークはクチュムを追い、首都カシュルィクを占領した。その後エルマークは逆襲され、クチュム軍に敗れたが、シベリア・ハン国は併合されていく。
ロシア国内は、続く戦いやオプリーチニナなどで、経済的危機に陥っていた。中央部・北西部は荒廃し、多くの農民が増大する負担を避けるために、国家と領主の締め付けが少ない南方・東方辺境地帯へ移っていった。労働力を失った士族層の多くは軍務に就けなくなった。労働力確保のために政府は、農民に認められていた移動の権利(ユーリーの日の規定)を撤廃しようとした。1581〜82年が「禁止年」とされ、移動が禁止された。これが繰り返され一般化されて、1649年の法典で時効(逃亡農民にたいする追求期限)が撤廃されて農奴制が完成した。
1584年、イヴァン4世(雷帝)が死去したとき、ロシアの領土は拡大していたが、政治は専制化し、経済は危機に陥っていた。3年前に有能な長男イヴァンを失っていたため、後継者は知力が劣るフョードルだった。
ロシア国内は、続く戦いやオプリーチニナなどで、経済的危機に陥っていた。中央部・北西部は荒廃し、多くの農民が増大する負担を避けるために、国家と領主の締め付けが少ない南方・東方辺境地帯へ移っていった。労働力を失った士族層の多くは軍務に就けなくなった。労働力確保のために政府は、農民に認められていた移動の権利(ユーリーの日の規定)を撤廃しようとした。1581〜82年が「禁止年」とされ、移動が禁止された。これが繰り返され一般化されて、1649年の法典で時効(逃亡農民にたいする追求期限)が撤廃されて農奴制が完成した。
1584年、イヴァン4世(雷帝)が死去したとき、ロシアの領土は拡大していたが、政治は専制化し、経済は危機に陥っていた。3年前に有能な長男イヴァンを失っていたため、後継者は知力が劣るフョードルだった。