
反乱州の連邦議会 フェリペ2世の統治権を否認
スペイン国王側は1578年10月、執政に就任したパルマ公を先頭に攻勢にでた。反乱州の連邦議会は1581年7月、低地諸州にたいするフェリペ2世の統治権を否認する布告をだして抵抗した。反乱州はすでにフランス王アンリ3世の弟アンジュー公を君主として迎えることを決めていた(1580年9月 プレシ・レ・トゥール条約)。アンジュー公はカトリックだったが、スペインの支配から脱することが最優先だったらしい。この布告は独立を宣言するものではなかった。
アンジュー公は1581年8月低地地方に来たが、思惑の違いから孤立し、83年6月に帰国、翌年死去した。この間パルマ公は反乱側についていた南部の都市を攻略していた。
1580年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
アンジュー公は1581年8月低地地方に来たが、思惑の違いから孤立し、83年6月に帰国、翌年死去した。この間パルマ公は反乱側についていた南部の都市を攻略していた。
1580年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1584年7月オランイェ公がデルフトで刺客に襲われ死亡した。指導者を失った反乱州は、1585年1月にフランス王アンリ3世に主権を委ねようとして断られた。6月にはイギリスのエリザベス女王に同じ申し出をして断られたが、エリザベスは反乱州に5千人の兵士と資金を送ることを約束した(1585年8月 ノンサッチ条約)。1585年12月、女王の寵臣レスター伯が5千人の兵士とともに低地地方に来て執政として迎えられたが、彼も思惑の違いから反乱州側と対立し、87年12月に帰国してしまった。
オランイェ公の次男マウリッツ(ナッサウ伯 1618年からオランイェ公)が1585年ホラントとゼーラントの州総督に任命され、91年までにさらに3州の総督となって、反乱州の指導者になっていった。1597年までにフローニンゲン州や北東部もおさえて、北部7州をユトレヒト同盟としてまとめることができた。
低地地方の北部7州がオランダ連邦共和国となるが、独立宣言のようなものは出されてなく、独立の日時はわからない。
オランイェ公の次男マウリッツ(ナッサウ伯 1618年からオランイェ公)が1585年ホラントとゼーラントの州総督に任命され、91年までにさらに3州の総督となって、反乱州の指導者になっていった。1597年までにフローニンゲン州や北東部もおさえて、北部7州をユトレヒト同盟としてまとめることができた。
低地地方の北部7州がオランダ連邦共和国となるが、独立宣言のようなものは出されてなく、独立の日時はわからない。
