
フェリーペ2世 ポルトガル王位継承
16世紀後半、フェリーペ2世は強力なスペイン歩兵連隊を組織し、ヨーロッパでスペイン優位の時代を築いた。フランスにたいしては、1557年のサン・カンタンの戦い、58年のグラヴリーヌの戦いに勝利して、59年のカトー・カンブレジ和約でフランスのイタリアに対する要求を放棄させた。フランス国内でユグノー戦争(62〜98年)が始まると、カトリック側を支援して干渉した。
オスマン帝国は、1570年にヴェネツィアからキプロスを奪い、マルタ島も攻撃した。スペインはヴェネツィア、教皇庁と神聖同盟を結成して、71年のレパントの海戦でトルコ艦隊を破った。決定的な勝利ではなかったが、地中海でのイスラムの脅威を和らげた。80年にはオスマン帝国とスペインのあいだで協定が結ばれ、長年の戦いが終わった。
1578年、ポルトガル国王セバスティアンが無謀なアフリカ遠征をおこなって戦死した。高齢の叔父ドン・エンリケが王位を継いだが、後継者問題が起きた。カトリック両王以来の結婚政策でフェリーペは有力な候補者だったが、ポルトガル国内にはスペインに対する反発も強かった。80年、ドン・エンリケが死去すると、アルバ公の軍隊がポルトガルに侵攻した。
オスマン帝国は、1570年にヴェネツィアからキプロスを奪い、マルタ島も攻撃した。スペインはヴェネツィア、教皇庁と神聖同盟を結成して、71年のレパントの海戦でトルコ艦隊を破った。決定的な勝利ではなかったが、地中海でのイスラムの脅威を和らげた。80年にはオスマン帝国とスペインのあいだで協定が結ばれ、長年の戦いが終わった。
1578年、ポルトガル国王セバスティアンが無謀なアフリカ遠征をおこなって戦死した。高齢の叔父ドン・エンリケが王位を継いだが、後継者問題が起きた。カトリック両王以来の結婚政策でフェリーペは有力な候補者だったが、ポルトガル国内にはスペインに対する反発も強かった。80年、ドン・エンリケが死去すると、アルバ公の軍隊がポルトガルに侵攻した。
翌年4月ポルトガル議会はフェリーペの王位継承を認め、7月フェリーペはリスボンに入城した。同君連合でポルトガルの自治や制度は尊重されたが、スペイン・ハプスブルク家としては「太陽の沈まぬ帝国」を実現したことになる。ポルトガルの権益はスペイン帝国の一員として擁護されたが、たとえばポルトガルと友好関係を保っていたイギリスは、ポルトガル船をスペイン船みなして攻撃するようになった。
1580年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史

1580年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史