
北部7州 ユトレヒト同盟 スペイン国王側 アラス同盟
オランイェ公兄弟は1568年4月、オランダから反撃を始めた。アルバ公によって侵害されていた特権の回復を目的とするもので、改革派の大義やオランダ独立を求めるものではなかった。この80年にわたる戦いは「反乱」「80年戦争」と呼ばれ「独立戦争」とはあまりいわれない。
オランイェ公は弟たちとオランダ北部・中部から侵攻したが、失敗してフランスに逃れユグノー(カルヴァン派)軍に加わった。亡命者を集めて海上ゲリラ部隊「海乞食 ワーテルへーゼン」を創り、ドーヴァー、ラ・ロッシェルなどを拠点に無差別に略奪などを繰り返していた。1572年4月、海乞食の船団が偶然マース河口の小都市ブリーレ(デン・ブリール)の占拠に成功し、続いていくつかの港市も占拠した。ホラント州、ゼーラント州の重要な水路がおさえられたことで、7月までに他の27都市も海乞食側についた。ホラント州議会はオランイェ公を州総督にむかえ、ゼーラント州とともに国王にたいする反乱州となった。アルバ公も反撃したが、1574年10月レイデン攻撃に失敗し、この2州の大部分はスペイン軍の脅威から解放された。
1570年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
オランイェ公は弟たちとオランダ北部・中部から侵攻したが、失敗してフランスに逃れユグノー(カルヴァン派)軍に加わった。亡命者を集めて海上ゲリラ部隊「海乞食 ワーテルへーゼン」を創り、ドーヴァー、ラ・ロッシェルなどを拠点に無差別に略奪などを繰り返していた。1572年4月、海乞食の船団が偶然マース河口の小都市ブリーレ(デン・ブリール)の占拠に成功し、続いていくつかの港市も占拠した。ホラント州、ゼーラント州の重要な水路がおさえられたことで、7月までに他の27都市も海乞食側についた。ホラント州議会はオランイェ公を州総督にむかえ、ゼーラント州とともに国王にたいする反乱州となった。アルバ公も反撃したが、1574年10月レイデン攻撃に失敗し、この2州の大部分はスペイン軍の脅威から解放された。
1570年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
各地に亡命していた改革派信徒がこの2州に戻り、政治的・軍事的主導権を握っていった。1573年2月ホラント州議会がカトリックの礼拝を禁止したが、改革派は全体としては少数で、オランイェ公自身も改革派だったかどうかわからない。
1575年スペインは2度目の国家破産になり、76年低地地方のスペイン軍は給料未払いのためブラーバンド州各地で略奪を始めた。これによって国王側だった南部の州も一時反乱州につき、11月にヘントの和平を結び、一致して国王にスペイン軍撤退を迫った。しかし新しい執政ドン・ファン(フェリペの異母弟)の裏切りでヘント和平も失敗に終わった。
オランイェ公は反乱州拡大をめざして1577年10月にユトレヒト州を、1578年5月には抵抗していた最大の都市アムステルダムを反乱州側に引き入れた。
南部では1579年1月にパルマ公ファルネーゼ(フェリペの甥)のもとでエノー、アルトワ2州を中心にアラス同盟を結成し国王との協調路線を表明したため、北部の反乱3州と若干の貴族は同じ1月ユトレヒト同盟を結び対抗した。夏にかけて、ヘント、イーベル、アントウェルペンといった南部の都市も加わり、翌年には北部の残り4州も加わって、北部7州の態勢が整った。南部の諸都市はその後脱落していった。
1575年スペインは2度目の国家破産になり、76年低地地方のスペイン軍は給料未払いのためブラーバンド州各地で略奪を始めた。これによって国王側だった南部の州も一時反乱州につき、11月にヘントの和平を結び、一致して国王にスペイン軍撤退を迫った。しかし新しい執政ドン・ファン(フェリペの異母弟)の裏切りでヘント和平も失敗に終わった。
オランイェ公は反乱州拡大をめざして1577年10月にユトレヒト州を、1578年5月には抵抗していた最大の都市アムステルダムを反乱州側に引き入れた。
南部では1579年1月にパルマ公ファルネーゼ(フェリペの甥)のもとでエノー、アルトワ2州を中心にアラス同盟を結成し国王との協調路線を表明したため、北部の反乱3州と若干の貴族は同じ1月ユトレヒト同盟を結び対抗した。夏にかけて、ヘント、イーベル、アントウェルペンといった南部の都市も加わり、翌年には北部の残り4州も加わって、北部7州の態勢が整った。南部の諸都市はその後脱落していった。