
アルカセル・キビルの戦いで大敗 セバスティアン王戦死
ジョアン3世の後継王セバスティアン(在位1557-78)は十字軍としてのモロッコ征服を夢見ていたらしい。1568年からの親政期に資金と軍勢を集め、1578年、自ら1万千人の兵を率いてアルカセル・キビルへ遠征した。結果は大敗北。8千人の貴族・兵士を失い、自らも戦死、残りはほとんどが捕虜となった。セバスティアンは未婚だったため、高齢の枢機卿ドン・エンリケが後継王になった。エンリケは身代金を捻出して多くの捕虜を救出したが、後継を指名できないまま1580年1月死去した。後継候補のなかでともにマヌエル1世の孫、大貴族ブラガンサ公の妻カタリーナとクラト修道院長ドン・アントニオが有力とされていた。
二人をしのいだのが、マヌエル1世の娘を母にもつスペイン国王フェリーペ2世だった。戦費と身代金の負担で貧窮するポルトガルの貴族や聖職者を買収してブラガンサ公を屈服させ、ドン・アントニオの軍を破って、1580年のうちにアソーレス諸島を除くポルトガルを平定した。翌年4月、フェリーペ2世はトマールのコルテスでポルトガル国王フィリーペ1世として即位した。
二人をしのいだのが、マヌエル1世の娘を母にもつスペイン国王フェリーペ2世だった。戦費と身代金の負担で貧窮するポルトガルの貴族や聖職者を買収してブラガンサ公を屈服させ、ドン・アントニオの軍を破って、1580年のうちにアソーレス諸島を除くポルトガルを平定した。翌年4月、フェリーペ2世はトマールのコルテスでポルトガル国王フィリーペ1世として即位した。
フィリーペ1世がトマールのコルテスでポルトガルに大幅な自治を約束し、それを実行したことでスペイン王権による併合が実現した。ポルトガルのコルテスはポルトガル人だけで構成され、行政と司法の官職もポルトガル人によって占められた。海洋帝国の統治もポルトガル人に委ねられ、財政と通貨も分離され、公用語もポルトガル語だった。ポルトガルは重荷となっていた宮廷の維持から解放され、関税障壁が取り除かれて、不足していた小麦の輸入が円滑におこなわれるようになった。
またポルトガル側では、アジア貿易で大量の銀を必要としていて、新大陸の銀が欲しかった。また1560年代に開設されたマニラ・アカプルコ航路はインド領の公益機会の拡大を予想させた。(フィリピン・モルッカ諸島から直接メキシコへは、貿易風が逆風になるため、帆船では向かえなかった。いったん北上して東へ向かう航路が開設された。)
1570年代 ヨーロッパ史年表
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
またポルトガル側では、アジア貿易で大量の銀を必要としていて、新大陸の銀が欲しかった。また1560年代に開設されたマニラ・アカプルコ航路はインド領の公益機会の拡大を予想させた。(フィリピン・モルッカ諸島から直接メキシコへは、貿易風が逆風になるため、帆船では向かえなかった。いったん北上して東へ向かう航路が開設された。)
1570年代 ヨーロッパ史年表
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史