
ステファン・バートリ即位 国王選挙
「領地の執行」で成果を上げた後、王権と「執行」派との距離が再び開いたまま、1572年ジグムント2世アウグストが死去した。186年間続いたヤギェウォ王朝断絶で、「共和国」は緊張した。
シュラフタは空位期の治安維持のために「連盟」を結成した。73年1月、国王選挙の方法を決めるための議会(召集議会)が開かれた。場所はカトリック勢力が強いワルシャワ近郊、シュラフタ各人が選挙権を持ち、空位期の執政には首座大司教が就任した。
プロテスタント貴族は不安を感じたが、カトリック側も混乱が起きることを望まず、両者の代表の協議で空位期の宗教的平和を保障する「ワルシャワ連盟協約」が起草された。適用範囲に曖昧な部分が残されているが、新旧両派による平和共存の取り決めだった。
1573年5月の選挙議会で選ばれたのが、フランス王の弟、アンジュー公アンリ・ド・ヴァロワ。前年のサン・バルテルミー虐殺の当事者だったが、シュラフタの反ハプスブルク感情もあってハプスブルク家の大公エルンストを抑えて当選した。(ヘンリク・ヴァレジィ 在位1573〜74)
シュラフタは新しい君主を迎えるために2種類の契約を準備した。個人的契約(パクタ・コンヴェンタ)と王位当選者との公的な統治契約(ヘンリク諸条項)。
個人的契約(パクタ・コンヴェンタ)はフランスとの同盟、軍事援助、クラクフ大学への助成などを含み、国王選挙ごとに当選者と個別に結ばれた。
公的な統治契約(ヘンリク諸条項)は、「共和国」の法と特権(ワルシャワ連盟協約を含む)を尊重すること、2年ごとに会期6週間の議会を開くこと、元老院議員16名の常任評議会を設置すること、王の不法な統治にはシュラフタが服従と忠誠を拒否できることなどが規定され、選挙王制で王権の負うべき義務と制約が明記され、当選した歴代の国王が遵守すべき基本法となった。
シュラフタは空位期の治安維持のために「連盟」を結成した。73年1月、国王選挙の方法を決めるための議会(召集議会)が開かれた。場所はカトリック勢力が強いワルシャワ近郊、シュラフタ各人が選挙権を持ち、空位期の執政には首座大司教が就任した。
プロテスタント貴族は不安を感じたが、カトリック側も混乱が起きることを望まず、両者の代表の協議で空位期の宗教的平和を保障する「ワルシャワ連盟協約」が起草された。適用範囲に曖昧な部分が残されているが、新旧両派による平和共存の取り決めだった。
1573年5月の選挙議会で選ばれたのが、フランス王の弟、アンジュー公アンリ・ド・ヴァロワ。前年のサン・バルテルミー虐殺の当事者だったが、シュラフタの反ハプスブルク感情もあってハプスブルク家の大公エルンストを抑えて当選した。(ヘンリク・ヴァレジィ 在位1573〜74)
シュラフタは新しい君主を迎えるために2種類の契約を準備した。個人的契約(パクタ・コンヴェンタ)と王位当選者との公的な統治契約(ヘンリク諸条項)。
個人的契約(パクタ・コンヴェンタ)はフランスとの同盟、軍事援助、クラクフ大学への助成などを含み、国王選挙ごとに当選者と個別に結ばれた。
公的な統治契約(ヘンリク諸条項)は、「共和国」の法と特権(ワルシャワ連盟協約を含む)を尊重すること、2年ごとに会期6週間の議会を開くこと、元老院議員16名の常任評議会を設置すること、王の不法な統治にはシュラフタが服従と忠誠を拒否できることなどが規定され、選挙王制で王権の負うべき義務と制約が明記され、当選した歴代の国王が遵守すべき基本法となった。
ヘンリク(アンリ 22歳)はこれらの拘束が不満だったらしく、74年2月のクラクフでの戴冠式の4ヶ月後、兄シャルル9世の訃報を受けると、密かにポーランドを去ってフランス王位(アンリ3世)に就いた。ポーランド側は帰還を待ったが、75年5月ふたたび空位期を宣言し、あらたな選挙準備にはいった。
2度目の国王選挙には、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が候補に立った。シュラフタのなかには「ピアストの王(ポーランド人の王)」を待望する声があったが、ジグムント2世の妹アンナ・ヤギェロンカのほかに適任者がいなかった。ハプスブルク家に対抗する候補になったのは、トランシルヴァニア公ステファン・バートリだった。1575年12月、元老院と一部のシュラフタはマクシミリアン2世を選出した。その3日後多くのシュラフタは、アンナ・ヤギェロンカとの結婚を前提にステファン・バートリを選出した。翌年5月、バートリは戴冠した(在位1576〜86)。10月にマクシミリアン2世が死去したため、内戦は回避された。
バートリは対外的には積極策をとった。1577年にイヴァン4世がリヴォニアに侵攻すると、翌年に王領地農民から選抜した歩兵軍を編成した。リヴォニアを占領したモスクワ軍の背後を衝く作戦を立てて、79年にポウォツクを奪回、81年にはプスコフを攻囲した。1582年に10年間の休戦条約が結ばれて、モスクワ軍はリヴォニアから撤退し、ポウォツクはリトアニアに回復された。
内政面では大法官ヤン・ザモイスキと接近し、対立する大貴族ズボロフスキ家を弾圧した。ズボロフスキ側は、シュラフタの自由の侵害であると主張した。1578年に「王国裁判所」が創設されたことは「法の執行」運動の成果だった。国王裁判に代わるシュラフタ身分の最上級審で、1581年にリトアニアにも同様の最高法廷が設置された。シュラフタの改革運動の勢いは衰え始めていた。
1570年代 系図は1537年
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
2度目の国王選挙には、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が候補に立った。シュラフタのなかには「ピアストの王(ポーランド人の王)」を待望する声があったが、ジグムント2世の妹アンナ・ヤギェロンカのほかに適任者がいなかった。ハプスブルク家に対抗する候補になったのは、トランシルヴァニア公ステファン・バートリだった。1575年12月、元老院と一部のシュラフタはマクシミリアン2世を選出した。その3日後多くのシュラフタは、アンナ・ヤギェロンカとの結婚を前提にステファン・バートリを選出した。翌年5月、バートリは戴冠した(在位1576〜86)。10月にマクシミリアン2世が死去したため、内戦は回避された。
バートリは対外的には積極策をとった。1577年にイヴァン4世がリヴォニアに侵攻すると、翌年に王領地農民から選抜した歩兵軍を編成した。リヴォニアを占領したモスクワ軍の背後を衝く作戦を立てて、79年にポウォツクを奪回、81年にはプスコフを攻囲した。1582年に10年間の休戦条約が結ばれて、モスクワ軍はリヴォニアから撤退し、ポウォツクはリトアニアに回復された。
内政面では大法官ヤン・ザモイスキと接近し、対立する大貴族ズボロフスキ家を弾圧した。ズボロフスキ側は、シュラフタの自由の侵害であると主張した。1578年に「王国裁判所」が創設されたことは「法の執行」運動の成果だった。国王裁判に代わるシュラフタ身分の最上級審で、1581年にリトアニアにも同様の最高法廷が設置された。シュラフタの改革運動の勢いは衰え始めていた。
1570年代 系図は1537年
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史