
ヘントの和平 一時的妥協
アルバ公の後任レケセンスは宥和政策をとった。十分の一税を取りやめ、「騒擾評議会」も廃止した。しかし宗教政策は変わらず、カルヴァン派の抗戦は続いた。レケセンスは1576年3月に急死し、8ヵ月余りの権力空白期間が生じて、国務会議に暫定的な統治が委ねられた。その間、国家破産で給料未払いになったスペイン兵士の暴動・略奪が続いた。
ブラーバンド州議会によって召集された全国議会とオランイェ公を指導者とする北部諸州(ホラント、ゼーラント)との和平交渉がヘント(ガン)始められた。スペイン兵がアントウェルペンで略奪・市民虐殺をおこなったため、妥協が急がれ、1576年11月ヘントの和平が成立した。
低地地方諸州(17州)は、「確固として、侵さざる平和、協約、友愛を保つ」ためにまとまること、宗教的迫害を停止すること、スペイン兵および諸外国の兵士を撤収させること、北部(ホラント、ゼーラント)ではカルヴァン主義を維持し、ほかの諸州ではカトリックを維持することが確認された。
ヘントの和平は一時的妥協にすぎなかった。カルヴァン派の拡大にカトリック側貴族が不安を感じたからだった。
1570年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
ブラーバンド州議会によって召集された全国議会とオランイェ公を指導者とする北部諸州(ホラント、ゼーラント)との和平交渉がヘント(ガン)始められた。スペイン兵がアントウェルペンで略奪・市民虐殺をおこなったため、妥協が急がれ、1576年11月ヘントの和平が成立した。
低地地方諸州(17州)は、「確固として、侵さざる平和、協約、友愛を保つ」ためにまとまること、宗教的迫害を停止すること、スペイン兵および諸外国の兵士を撤収させること、北部(ホラント、ゼーラント)ではカルヴァン主義を維持し、ほかの諸州ではカトリックを維持することが確認された。
ヘントの和平は一時的妥協にすぎなかった。カルヴァン派の拡大にカトリック側貴族が不安を感じたからだった。
1570年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1577年9月、新執政ドン・ファン(フェリペの異母弟)に対抗して、オランイェ公はブラーバンド州総督に就任した。ヘントの急進的カルヴァン派が都市を支配し、カトリック信仰を禁止して、共和政を樹立。近隣のブルッヘ、イーペルも続いた。これに対して、アルトワ、エノー、フランドルのカトリックの貴族・市民たちがヘントを攻撃し、カルヴァン派は敗れた。
1579年1月、カトリック勢力は、諸特権の回復とカトリックの秩序維持を目的としたアラス同盟を結成した。その半月後、オランイェ公は北部7州とフランドル、ブラーバンドの諸都市(ヘント、アントウェルペンなど)を集めてユトレヒト同盟を結成した。1578年に新執政となったパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(フェリペの甥)は南部諸州の貴族たちと、1579年5月にカトリックの維持とフェリペ2世の権威の保持という条件で、講和(アラスの和平)を結んだ。
1581年7月、オランイェ公はフェリペの統治権を否認する布告をだし、君主としてアンジュー公(フランス王の弟)を招請していた。しかし83年、アンジュー公がフランス兵でアントウェルペンを占領したために失敗。ファルネーゼはスペインから送られた5万人の軍で、ユトレヒト同盟に参加していた南部諸都市を攻撃し、1585年8月にアントウェルペンを占領、南部を完全に鎮圧した。ファルネーゼは新教徒の亡命を容認したため、多数の新教徒が北部へ移住し、南部10州はカトリック地域になった。
1579年1月、カトリック勢力は、諸特権の回復とカトリックの秩序維持を目的としたアラス同盟を結成した。その半月後、オランイェ公は北部7州とフランドル、ブラーバンドの諸都市(ヘント、アントウェルペンなど)を集めてユトレヒト同盟を結成した。1578年に新執政となったパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(フェリペの甥)は南部諸州の貴族たちと、1579年5月にカトリックの維持とフェリペ2世の権威の保持という条件で、講和(アラスの和平)を結んだ。
1581年7月、オランイェ公はフェリペの統治権を否認する布告をだし、君主としてアンジュー公(フランス王の弟)を招請していた。しかし83年、アンジュー公がフランス兵でアントウェルペンを占領したために失敗。ファルネーゼはスペインから送られた5万人の軍で、ユトレヒト同盟に参加していた南部諸都市を攻撃し、1585年8月にアントウェルペンを占領、南部を完全に鎮圧した。ファルネーゼは新教徒の亡命を容認したため、多数の新教徒が北部へ移住し、南部10州はカトリック地域になった。