
教皇 エリザベス破門の教書
エリザベスの枢密院の中心には、国王秘書長官ウィリアム・セシル(のちのバーリ男爵)など、貴族以外の階層出身者が多かった。大貴族の政治への影響力は、中央では弱まっていたが、地方では大きかった。北部地域の大貴族は、彼らがカトリックへの共感を持ち続けていたこともあって、エリザベス治世の不安要因だった。
1561年、メアリ・スチュアートが夫フランス王フランソワ2世の死後に帰国した。スコットランドではすでにジョン・ノックスのもとで宗教改革がおこなわれていた。メアリのカトリック復古政策などは貴族の反発を招き、1567年にメアリは王位を追われ、翌年イングランドに亡命した。イングランドの王位継承法をもつカトリック教徒が現れたことは、北部の大貴族にとってエリザベスを倒す格別なチャンスと思われた。エドワード6世やメアリ1世の例からも宗教改革が安定するためには長期の治世が必要だった。
1570年代
1561年、メアリ・スチュアートが夫フランス王フランソワ2世の死後に帰国した。スコットランドではすでにジョン・ノックスのもとで宗教改革がおこなわれていた。メアリのカトリック復古政策などは貴族の反発を招き、1567年にメアリは王位を追われ、翌年イングランドに亡命した。イングランドの王位継承法をもつカトリック教徒が現れたことは、北部の大貴族にとってエリザベスを倒す格別なチャンスと思われた。エドワード6世やメアリ1世の例からも宗教改革が安定するためには長期の治世が必要だった。
1570年代
しかし、不穏な動きは事前に察知され、1569年ノーサンバランド伯、ウェストモーランド伯が反乱を起こしたが、ジェントリは集まらず、カトリック教徒の多くも女王支持にまわった。両伯は亡命し、その所領は没収された。これによって北部地域への王権の浸透が実現された。
教皇ピウス5世にとって、多くのカトリック教徒が反乱を支持しなかったことはショックだった。教皇は1570年、エリザベス破門の教書を出し、イングランドのカトリック教徒に反エリザベスの活動を促した。この教書はエリザベスのカトリックに対する態度を硬化させ、カトリック教徒を混乱させた。宣教師やイエズス会士は危険視され、厳しく取り締まられた。
1571年には「三十九カ条(1563年)」の正餐規定が公表され、国教会のプロテスタント色が鮮明になった。
世界各国史11 イギリス史
教皇ピウス5世にとって、多くのカトリック教徒が反乱を支持しなかったことはショックだった。教皇は1570年、エリザベス破門の教書を出し、イングランドのカトリック教徒に反エリザベスの活動を促した。この教書はエリザベスのカトリックに対する態度を硬化させ、カトリック教徒を混乱させた。宣教師やイエズス会士は危険視され、厳しく取り締まられた。
1571年には「三十九カ条(1563年)」の正餐規定が公表され、国教会のプロテスタント色が鮮明になった。
世界各国史11 イギリス史