
ドイツ国王マクシミリアン1世 帝国の改革
1463年フリードリヒ3世はオーストリアを入手したが、ハンガリー王マーチャーシュと対立、85年にウィーンを占領されてマーチャーシュが死去する90年まで戻ることができなかった。
フリードリヒはドイツの諸侯に救援を求めたが、この機会に帝国を改革しようとする動きが帝国諸侯にみられた。中心人物はマインツ大司教ベルトルド・フォン・へネベルク。ベルトルドはフリードリヒにドイツ王位を息子マクシミリアンに譲るように迫り、1486年、ドイツ国王マクシミリアン1世(国王在位1486〜1519、皇帝在位1508〜19)が生まれた。
帝国諸侯はベルトルドの構想に従って、帝国改革案を1495年のヴォルムスの帝国議会で提示した。帝国とハプスブルク家(皇帝権力)を分けることが狙いだった。マクシミリアンは4つの制度を柱とする帝国の改革を決定した。
永久ラント平和令の制定
帝国最高法院の設置
一般帝国税(ゲマイナー・プフェニヒ)の導入
帝国会議の整備
1490年代
世界各国史13 ドイツ史
フリードリヒはドイツの諸侯に救援を求めたが、この機会に帝国を改革しようとする動きが帝国諸侯にみられた。中心人物はマインツ大司教ベルトルド・フォン・へネベルク。ベルトルドはフリードリヒにドイツ王位を息子マクシミリアンに譲るように迫り、1486年、ドイツ国王マクシミリアン1世(国王在位1486〜1519、皇帝在位1508〜19)が生まれた。
帝国諸侯はベルトルドの構想に従って、帝国改革案を1495年のヴォルムスの帝国議会で提示した。帝国とハプスブルク家(皇帝権力)を分けることが狙いだった。マクシミリアンは4つの制度を柱とする帝国の改革を決定した。
永久ラント平和令の制定
帝国最高法院の設置
一般帝国税(ゲマイナー・プフェニヒ)の導入
帝国会議の整備
1490年代
世界各国史13 ドイツ史
永久ラント平和令の制定は、帝国をひとつの法共同体とみなし、武力行使のフェーデを全面的に禁止、紛争の解決を裁判に委ねた。
帝国最高法院は、永久ラント平和令の違反者を裁判するために設置された帝国の裁判所で、費用も帝国によってまかなわれた。裁判官は皇帝と諸侯によって任命された。
一般帝国税、帝国の運営費をまかなうためのものだが、初めから反対が多く、4年間に限定されていて徴収も失敗した。
帝国会議の整備「平和と法の司掌」で帝国会議の構成や審議、票決の方法が定められ、年一回開催することが合意された。
1500年には、帝国の行政を執行するため、皇帝・選帝侯・帝国諸侯・都市・クライスの代表など20名で構成される帝国統治院が設置された。(クライスは6つの帝国の行政管区。裁判の執行、租税の徴収、兵の調達をおこなうために制度化された。)
一連の改革はマクシミリアンと帝国諸侯との妥協によるものだった。永久ラント平和令は「法と秩序」を帝国全域に浸透させ、帝国最高法院は1806年の帝国消滅まで活動した。しかし帝国統治院は機能しなかった。帝国諸侯は帝国と皇帝を分離することで満足し、帝国に独自の軍隊も収入も与えようとしなかった。
絶対主義的国家が形成され始めた頃、帝国と皇帝は分離し、権力の機能は分散していった。
帝国最高法院は、永久ラント平和令の違反者を裁判するために設置された帝国の裁判所で、費用も帝国によってまかなわれた。裁判官は皇帝と諸侯によって任命された。
一般帝国税、帝国の運営費をまかなうためのものだが、初めから反対が多く、4年間に限定されていて徴収も失敗した。
帝国会議の整備「平和と法の司掌」で帝国会議の構成や審議、票決の方法が定められ、年一回開催することが合意された。
1500年には、帝国の行政を執行するため、皇帝・選帝侯・帝国諸侯・都市・クライスの代表など20名で構成される帝国統治院が設置された。(クライスは6つの帝国の行政管区。裁判の執行、租税の徴収、兵の調達をおこなうために制度化された。)
一連の改革はマクシミリアンと帝国諸侯との妥協によるものだった。永久ラント平和令は「法と秩序」を帝国全域に浸透させ、帝国最高法院は1806年の帝国消滅まで活動した。しかし帝国統治院は機能しなかった。帝国諸侯は帝国と皇帝を分離することで満足し、帝国に独自の軍隊も収入も与えようとしなかった。
絶対主義的国家が形成され始めた頃、帝国と皇帝は分離し、権力の機能は分散していった。