
マクシミリアン 皇帝位を継ぐ
1493年、マクシミリアン(在位1493〜1519)が皇帝位とハプスブルク家の全世襲領を相続、帝国改革とオーストリアの集権化に着手した。
しかしオーストリアでは各領邦の諸身分が自治を発展させていて、オーストリア全体を統一的に統治しようとするマクシミリアンの政策には抵抗があった。議会の課税同意権は尊重する必要があり、諸身分の各領邦への帰属意識が強かったが、オーストリア全国議会を開くことはできた。
1515年、マクシミリアンはヴワディスワフ2世と交渉し、孫のフェルディナントとマリアが、ヤゲウォ家のアンとルドヴィク(ボヘミアとハンガリーの王位継承者)と結婚するという二重婚姻を成立させた。両家はどちらかの家系で相続者が途絶えた場合、もう一方の家系の者が正当な相続権者となることで合意していた。 1526年のモハーチの戦いでルドヴィク1世が戦死したため、ハプスブルク家がボヘミアとハンガリーの王位を受け継ぐことになった。
1490年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
世界各国史13 ドイツ史
しかしオーストリアでは各領邦の諸身分が自治を発展させていて、オーストリア全体を統一的に統治しようとするマクシミリアンの政策には抵抗があった。議会の課税同意権は尊重する必要があり、諸身分の各領邦への帰属意識が強かったが、オーストリア全国議会を開くことはできた。
1515年、マクシミリアンはヴワディスワフ2世と交渉し、孫のフェルディナントとマリアが、ヤゲウォ家のアンとルドヴィク(ボヘミアとハンガリーの王位継承者)と結婚するという二重婚姻を成立させた。両家はどちらかの家系で相続者が途絶えた場合、もう一方の家系の者が正当な相続権者となることで合意していた。 1526年のモハーチの戦いでルドヴィク1世が戦死したため、ハプスブルク家がボヘミアとハンガリーの王位を受け継ぐことになった。
1490年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
世界各国史13 ドイツ史
1477年、マクシミリアンはブルゴーニュのシャルル豪胆公の娘マリーとの結婚でネーデルラントやフランシュ・コンテを得、マリーの死後は息子フィリップがこの地を支配した。フィリップはアラゴン王とカスティリャ女王イサベラの娘フアナと結婚、イベリア半島の大部分やナポリ、シチリアをハプスブルク家に残した。
マクシミリアンは1490年に、ハンガリーからオーストリアを奪い返し、1493年にはティロールを得て、フッガー家との関係を持った。1526年には左記のようにボヘミアとハンガリーの王位を受け継ぐことになった。ヨーロッパ全域にわたる広大な領域をハプスブルク家のもとに集めたが、一族の出身地スイスを失っている。
1499年、シュヴァーベン戦争で独立をめざすスイス誓約同盟に敗れ、バーゼルの和約でスイスが帝国を離れ実質的に独立することが認められた。
1493年、マクシミリアンはミラノのビヤンカ・マリーアと再婚し、イタリア北部の都市を手に入れたが、その支配をめぐってフランスが介入、イタリア戦争になった。1515年のマリニャーノの戦いでフランスがミラノを確保し、翌年マクシミリアンはミラノを放棄した。
マクシミリアンは1490年に、ハンガリーからオーストリアを奪い返し、1493年にはティロールを得て、フッガー家との関係を持った。1526年には左記のようにボヘミアとハンガリーの王位を受け継ぐことになった。ヨーロッパ全域にわたる広大な領域をハプスブルク家のもとに集めたが、一族の出身地スイスを失っている。
1499年、シュヴァーベン戦争で独立をめざすスイス誓約同盟に敗れ、バーゼルの和約でスイスが帝国を離れ実質的に独立することが認められた。
1493年、マクシミリアンはミラノのビヤンカ・マリーアと再婚し、イタリア北部の都市を手に入れたが、その支配をめぐってフランスが介入、イタリア戦争になった。1515年のマリニャーノの戦いでフランスがミラノを確保し、翌年マクシミリアンはミラノを放棄した。