
ヤン・オルブラフト 即位
カジミエシ・ヤギェロンチクを継いだ新国王ヤン・オルブラフト(在位.1492〜1501)が1493年に招集した議会から、ポーランドの全国議会は二院制となった。地方議会が派遣する代議員で形成される下院(代議院)と元老院(従来の国王評議会)。1505年にはニヒル・ノヴィ法が可決され、国王は両院の同意なしには新たな立法ができなくなった。国王も議会の構成要素とされて、国王・元老院・代議院が「議会の三身分」と呼ばれるようになった。一方マグナート(大領主)も主権奪回の機会をねらっていた。
15世紀半ばにキプチャク・ハン国が分裂して、オスマン帝国とモスクワ大公国が進出していた。オルブラフトはモルダヴィアからオスマン帝国の影響力を排除することで、黒海貿易の回復をめざしたが、1497年モルダヴィア軍に大敗してしまった。
アレクサンデルを大公としたリトアニアは、カジミエシ死去の直後からモスクワの攻撃を受けていた。1494年に和約が成立したが、ポーランド軍の弱さが明らかになり、1500年リトアニア軍は完敗した。ドニエプル川東岸の多くを失ったリトアニアはポーランドの援助を必要としていた。
15世紀半ばにキプチャク・ハン国が分裂して、オスマン帝国とモスクワ大公国が進出していた。オルブラフトはモルダヴィアからオスマン帝国の影響力を排除することで、黒海貿易の回復をめざしたが、1497年モルダヴィア軍に大敗してしまった。
アレクサンデルを大公としたリトアニアは、カジミエシ死去の直後からモスクワの攻撃を受けていた。1494年に和約が成立したが、ポーランド軍の弱さが明らかになり、1500年リトアニア軍は完敗した。ドニエプル川東岸の多くを失ったリトアニアはポーランドの援助を必要としていた。
ポーランドでは、1501年オルブラフトが急死した。マグナートはリトアニア大公アレクサンデル(在位1501〜06)を王に選び、ミエルニクで二つの文書を発給させて、攻勢に出ようとした。ミエルニクの合同では、両国は「不可分のひとつの身体」を構成するとされ、ミエルニクの特権では、元老院の主導権を認めていた。しかしマグナートはどちらの原則も維持できなかった。
1503年に就任した王国大法官のもとで、シュラフタは態勢を立て直した。翌年の議会で、大領主の所領の多くを占める、王領地の贈与や抵当化には元老院の同意を得ることが定められた。1505年のラドム議会では、ニヒル・ノヴィ法が可決され、二院制議会、下院の立法権が明確になった。
ポーランドでは1454年から1505年にかけて、絶対王政とは対照的なシュラフタ共和制の法的枠組みがつくられた。
1490年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1503年に就任した王国大法官のもとで、シュラフタは態勢を立て直した。翌年の議会で、大領主の所領の多くを占める、王領地の贈与や抵当化には元老院の同意を得ることが定められた。1505年のラドム議会では、ニヒル・ノヴィ法が可決され、二院制議会、下院の立法権が明確になった。
ポーランドでは1454年から1505年にかけて、絶対王政とは対照的なシュラフタ共和制の法的枠組みがつくられた。
1490年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
