
ハンガリー王 ヴワディスワフ2世選出 ヤゲウォ王朝連合
1490年、ハンガリーは国王にボヘミア王ヴワディスワフを選出した(ハンガリー王ウラースロー2世 在位1490〜1516)。これによってポーランド、リトアニア、ボヘミア、ハンガリー4国のヤゲウォ王朝連合が成立し、ボヘミアとハンガリーは同君連合となった。しかしヤゲウォ家はボヘミアとハンガリーには権力基盤を持たず、各国の諸身分に譲歩した、制限された王権だった。ハンガリー新王が諸身分から求められたのは、彼らの権利を保証し、マーチャーシュの集権化策を放棄することだった。宮廷に出入りする大貴族は絶大な富と権力を得ることができた。一方、地方貴族はトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュを指導者として対抗した。効率的な統治や王国防衛のための協力などは望めなかった。
オスマン帝国の拡大は続いていたため、1514年に大司教バコーツが対オスマン十字軍宣言をだした。15世紀末頃、西欧では穀物価格が上昇し、領主貴族は市場向け農産物の生産を増やそうとしていた。農民の賦役負担の増加や移動の制限などの抑圧に対する不満が高まっていた。その不満の受け皿として農民の十字軍を考えたらしい。しかし増える参加者に不安を感じた大貴族たちは、自分の領民が十字軍に参加するのを妨げ、大司教を説得して十字軍計画を中断させた。しかし農民たちは解散命令に応じず、農民の権利を回復するように求め始めた。
オスマン帝国の拡大は続いていたため、1514年に大司教バコーツが対オスマン十字軍宣言をだした。15世紀末頃、西欧では穀物価格が上昇し、領主貴族は市場向け農産物の生産を増やそうとしていた。農民の賦役負担の増加や移動の制限などの抑圧に対する不満が高まっていた。その不満の受け皿として農民の十字軍を考えたらしい。しかし増える参加者に不安を感じた大貴族たちは、自分の領民が十字軍に参加するのを妨げ、大司教を説得して十字軍計画を中断させた。しかし農民たちは解散命令に応じず、農民の権利を回復するように求め始めた。
十字軍指揮を任されていたドージャ・ジェルジは大貴族と戦うことを決心。初めは農民軍が優勢だったが、サポヤイが率いる中小貴族党派が大貴族に助力したこともあって敗れ、ドージャは処刑された。ハンガリー最大の農民戦争「ドージャの乱」。
この後、貴族の農民支配は一層強化された。中小貴族党派の代表が慣習法を編纂した「三部法書」は国王による承認を得ていなかったが、数世紀にわたり下級貴族の特権を保証したとされる。
15世紀後半、ハンガリー南部の防衛ラインの維持が資金不足により困難になっていた。オスマン帝国ではスレイマン大帝(在位1520〜66)がヨーロッパへ向けて本格的な行動を始める。ボヘミアとハンガリーではヴワディスワフの息子ルドヴィク1世(ハンガリー王ラヨシュ2世 在位1516〜26)が即位していた。
1521年にハンガリー防衛の拠点ベオグラードが落城、1526年にはモハーチ郊外の平原で、国王率いるハンガリー軍がオスマンの大軍と戦い、短時間で壊滅、国王も戦死した。ヤゲウォ家同君連合は解体し、中世ハンガリー王国も最後を迎えた。
1490年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
この後、貴族の農民支配は一層強化された。中小貴族党派の代表が慣習法を編纂した「三部法書」は国王による承認を得ていなかったが、数世紀にわたり下級貴族の特権を保証したとされる。
15世紀後半、ハンガリー南部の防衛ラインの維持が資金不足により困難になっていた。オスマン帝国ではスレイマン大帝(在位1520〜66)がヨーロッパへ向けて本格的な行動を始める。ボヘミアとハンガリーではヴワディスワフの息子ルドヴィク1世(ハンガリー王ラヨシュ2世 在位1516〜26)が即位していた。
1521年にハンガリー防衛の拠点ベオグラードが落城、1526年にはモハーチ郊外の平原で、国王率いるハンガリー軍がオスマンの大軍と戦い、短時間で壊滅、国王も戦死した。ヤゲウォ家同君連合は解体し、中世ハンガリー王国も最後を迎えた。
1490年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
