
マクシミリアン ブルッヘの外国商人にアントウェルペンへの移住を命じる
中世盛期、フランドルは毛織物工業で、イタリアとならぶ西欧経済の中心だった。しかし、14世紀後半以降、低地地方の商業の中心は南部から北部、さらに、アントウェルペンからアムステルダムへと移動していった。フランドル地方では14世紀初めに穀物危機があり、1316〜17年のヨーロッパ全体の飢饉でも大きな被害がでた。百年戦争と内乱、14世紀半ば以降に相次いだペストの流行で人口が減少し、経済も疲弊した。
14世紀以降ブルッヘ、ヘント、イーぺルなどのフランドル都市は、毛織物工業での独占的地位を失っていった。イギリス製毛織物が進出して市場が狭まり、さらにイギリスが羊毛輸出を制限し始めた。イタリアやイギリスの商人が低地地方を訪れ、ハンザ商人がバルト海商業をおさえたことで、フランドル商人の国際的地位が以前より低下した。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1480年代
14世紀以降ブルッヘ、ヘント、イーぺルなどのフランドル都市は、毛織物工業での独占的地位を失っていった。イギリス製毛織物が進出して市場が狭まり、さらにイギリスが羊毛輸出を制限し始めた。イタリアやイギリスの商人が低地地方を訪れ、ハンザ商人がバルト海商業をおさえたことで、フランドル商人の国際的地位が以前より低下した。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1480年代
ブルッヘにはイギリスの羊毛、イタリアの高級毛織物、ドイツの穀物や原料が集まり、ハンザ商人の商館をはじめとする外国商人のコロニーが作られ、都市貴族は外国商人とともに金融業を営んでいた。14世紀初め以来、土砂の堆積で外港ダムが使えなくなったこともあり、毛織物工業の衰退とともにブルッヘの商業活動も衰退していった。
15世紀末、マクシミリアン摂政就任に反対したことも、結果としてブルッヘの打撃となった。1483年マクシミリアンはブルッヘ在住の外国商人に退去を求め、85年にはブルッヘと北海とを結ぶズウィン川の水路を閉鎖した。1488年6月にはブルッヘの外国商人にアントウェルペンに住居と取引の場を移すように命じている。外国商人もイギリスが羊毛輸出を停止し、発展途上のイギリス製毛織物が入るフランドルを離れ、ドイツ市場に近く、ハプスブルク家と結んだアントウェルペンに移動した。
15世紀末、マクシミリアン摂政就任に反対したことも、結果としてブルッヘの打撃となった。1483年マクシミリアンはブルッヘ在住の外国商人に退去を求め、85年にはブルッヘと北海とを結ぶズウィン川の水路を閉鎖した。1488年6月にはブルッヘの外国商人にアントウェルペンに住居と取引の場を移すように命じている。外国商人もイギリスが羊毛輸出を停止し、発展途上のイギリス製毛織物が入るフランドルを離れ、ドイツ市場に近く、ハプスブルク家と結んだアントウェルペンに移動した。