
マーチャーシュとヴワディスワフ2世・フリードリヒ3世
1469年、オロモウツでボヘミア国王に選出されたマーチャーシュは、諸制度を改革して王権の強化と集権化をはかった。財務の専門家を登用し、税制を改革し税収の増加を実現させた。税収と王領収入の管理を役人にやらせ、大貴族の関与を止めさせて、安定した収入を確保した。また臨時特別税を毎年のように、議会の同意なしに徴収することで、2万人以上の傭兵からなる常備軍を維持できるようにした。常備軍はフス派の戦法を引き継いで、火器と戦車の使用を得意としていた。
一方文芸を保護し、イタリアなどから建築家や人文主義者を招いた。ハンガリーでも人文主義の文化・芸術が発展し、王はコルヴィナ文庫に多くの装飾入り写本を集めている。
聖杯派のボヘミア王イジーが1471年に死去、聖杯派はポーランドのヤゲウォ家からヴワディスワフ2世(ボヘミア王ヴラディスラフ2世 在位1471〜1516 のちにハンガリー王ウラースロー2世 在位1490〜1516)を国王に迎えた。ヤゲウォ家とハプスブルク家は反マーチャーシュ同盟を結び、マーチャーシュからシレジアを奪還しようとしたが敗れた。1479年にマーチャーシュとヴワディスワフのあいだでオロモウツ協定が結ばれ、マーチャーシュはモラヴィア、シレジア、ラウジッツの支配権を認められ、両者は友好的な関係になっていく。
1470年代
一方文芸を保護し、イタリアなどから建築家や人文主義者を招いた。ハンガリーでも人文主義の文化・芸術が発展し、王はコルヴィナ文庫に多くの装飾入り写本を集めている。
聖杯派のボヘミア王イジーが1471年に死去、聖杯派はポーランドのヤゲウォ家からヴワディスワフ2世(ボヘミア王ヴラディスラフ2世 在位1471〜1516 のちにハンガリー王ウラースロー2世 在位1490〜1516)を国王に迎えた。ヤゲウォ家とハプスブルク家は反マーチャーシュ同盟を結び、マーチャーシュからシレジアを奪還しようとしたが敗れた。1479年にマーチャーシュとヴワディスワフのあいだでオロモウツ協定が結ばれ、マーチャーシュはモラヴィア、シレジア、ラウジッツの支配権を認められ、両者は友好的な関係になっていく。
1470年代
マーチャーシュと皇帝フリードリヒ3世の関係は、1477年に皇帝がヴワディスワフのボヘミア王位を認めたことから悪化、マーチャーシュが皇帝に宣戦布告をおこなった。一時和平が結ばれるが、1482年にマーチャーシュが再度宣戦布告、ケルンテンをはじめウィーン、皇帝お気に入りのヴィーナー・ノイシュタットも1487年に占拠、下オーストリアをほぼ支配下においた。マーチャーシュはウィーンに宮殿を移したが、1490年に死去した。
マーチャーシュは身分に関係なく優れた者は登用した。そのなかから文人や法律の専門家もあらわれたが、その強引な手法に対する反感もあり、何度か謀反も起きた。大貴族は力を保ちながら、その不満は解消されなかった。
1470年代後半以降、聖杯派が代表者会議を組織したり、1483年にはプラハで市参事会にたいして暴動を起こしたりしたが、1485年クトナー・ホラの議会で、カトリック派と聖杯派のあいだで和解協定(クトナー・ホラの協定)が成立した。ボヘミアの貴族は宗教的対立を越えて、協力して支配体制強化を進めることができるようになった。
1490年マーチャーシュ王が死去、ハンガリー諸身分がヴワディスワフを国王に選出すると王はハンガリーへ行き、ボヘミアでは貴族が実権を握った。
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
マーチャーシュは身分に関係なく優れた者は登用した。そのなかから文人や法律の専門家もあらわれたが、その強引な手法に対する反感もあり、何度か謀反も起きた。大貴族は力を保ちながら、その不満は解消されなかった。
1470年代後半以降、聖杯派が代表者会議を組織したり、1483年にはプラハで市参事会にたいして暴動を起こしたりしたが、1485年クトナー・ホラの議会で、カトリック派と聖杯派のあいだで和解協定(クトナー・ホラの協定)が成立した。ボヘミアの貴族は宗教的対立を越えて、協力して支配体制強化を進めることができるようになった。
1490年マーチャーシュ王が死去、ハンガリー諸身分がヴワディスワフを国王に選出すると王はハンガリーへ行き、ボヘミアでは貴族が実権を握った。
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
