
カジミエシ・ヤギェロンチク 即位
ヴァルナの戦いのあと、1445年ポーランド王冠側は、リトアニアとの合同関係復活をめざして、カジミエシ・ヤギェロンチク(在位1447〜92)を国王に選出した。しかし、カジミエシが戴冠するまでに2年が必要だった。
カジミエシは王権強化と両国の対立解消に努めた。個人文書でリトアニアとポーランドの結びつきの対等制を確認して、1447年、リトアニアのボヤール(貴族・騎士層)にポーランドの貴族身分が享受するほとんどの特権を認めた。(ヴィルノの特権 1434年の人身保護律を再確認。君主の接待と城砦の建設・修理義務などを除く、国家への農民の負担義務を廃止。領主裁判権の承認など。ポーランドのコシツェの特権は1374年)
カジミエシはポーランドでの司教叙任と官職人事で交渉力を発揮して、国王評議会内に王党派をつくり、中流シュラフタやヴィエルコポルスカを支持基盤とした。
1440年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
カジミエシは王権強化と両国の対立解消に努めた。個人文書でリトアニアとポーランドの結びつきの対等制を確認して、1447年、リトアニアのボヤール(貴族・騎士層)にポーランドの貴族身分が享受するほとんどの特権を認めた。(ヴィルノの特権 1434年の人身保護律を再確認。君主の接待と城砦の建設・修理義務などを除く、国家への農民の負担義務を廃止。領主裁判権の承認など。ポーランドのコシツェの特権は1374年)
カジミエシはポーランドでの司教叙任と官職人事で交渉力を発揮して、国王評議会内に王党派をつくり、中流シュラフタやヴィエルコポルスカを支持基盤とした。
1440年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
オレシニツキ派の勢力は衰えていった。1452年にリトアニアのヴォイン併合を黙認したことで、国王批判が起こった。翌年の議会で王冠領の特権と法を承認し、漠然とリトアニアに対する王冠の権利を確認することで、批判はおさまった。
1440年に都市と領主層がプロイセン同盟を結成し、ドイツ騎士団との摩擦が増えていた。1454年初め、プロイセン同盟から請願を受けたカジミエシは、プロイセンの王冠への編入を宣言した。騎士団との戦いは、先陣のヴィエルコポルスカの軍が騎士団側に敗れたこともあって13年間続いた。
1466年の第二次トルンの和約でポーランドは東ポモージェなど海への出口を回復した。これらの地域は王領プロイセンと呼ばれ、独自の議会をもち、3県と司教領に再編された。騎士団はケーニヒスベルクに首都を移し、ポーランド王を封主とした。
カジミエシの長子ヴワディスワフ・ヤギェロンチクは1471年と90年にチェコとハンガリーの王位に就いた。ヤギェウォ家は三つの王国と一つの大公国を支配下においた。
1440年に都市と領主層がプロイセン同盟を結成し、ドイツ騎士団との摩擦が増えていた。1454年初め、プロイセン同盟から請願を受けたカジミエシは、プロイセンの王冠への編入を宣言した。騎士団との戦いは、先陣のヴィエルコポルスカの軍が騎士団側に敗れたこともあって13年間続いた。
1466年の第二次トルンの和約でポーランドは東ポモージェなど海への出口を回復した。これらの地域は王領プロイセンと呼ばれ、独自の議会をもち、3県と司教領に再編された。騎士団はケーニヒスベルクに首都を移し、ポーランド王を封主とした。
カジミエシの長子ヴワディスワフ・ヤギェロンチクは1471年と90年にチェコとハンガリーの王位に就いた。ヤギェウォ家は三つの王国と一つの大公国を支配下においた。