
ヘンリ6世 アンジュー公女マルグリートと結婚
1437年11月、16歳近くになったヘンリ6世は、大評議会で自ら構成員を任命した。事実上の親政開始で、1442年には成人宣言をおこなった。評議会の助言資格が弱まり、グロスタ公の政治権限も縮小した。
グロスタ公の反対があったが、アザンクールの戦い(1415年)で捕虜となっていたオルレアン公は1440年に釈放された。またグロスタ公はイングランド軍の相次ぐ敗戦について、宮廷とその側近の責任を追及したが、二番目の妻の悪評もあって、1443年以降評議会での実権はなくなった。この頃宮廷政治を動かしていたのは、王に任命された宮内府の関係者と一部の諸侯だった。
1426年に枢機卿になったウィンチェスタ司教は、その豊富な資金で王室の支出をまかない、宮廷政治を指揮できた。1433年に宮内府長官になったサフォーク伯は、王の俸禄配分権に影響を与え、恩顧を期待する諸侯たちを自派に取り込んだ。こうして宮廷を核にした諸侯や役人の宮廷派と呼ばれる集団ができた。
グロスタ公の反対があったが、アザンクールの戦い(1415年)で捕虜となっていたオルレアン公は1440年に釈放された。またグロスタ公はイングランド軍の相次ぐ敗戦について、宮廷とその側近の責任を追及したが、二番目の妻の悪評もあって、1443年以降評議会での実権はなくなった。この頃宮廷政治を動かしていたのは、王に任命された宮内府の関係者と一部の諸侯だった。
1426年に枢機卿になったウィンチェスタ司教は、その豊富な資金で王室の支出をまかない、宮廷政治を指揮できた。1433年に宮内府長官になったサフォーク伯は、王の俸禄配分権に影響を与え、恩顧を期待する諸侯たちを自派に取り込んだ。こうして宮廷を核にした諸侯や役人の宮廷派と呼ばれる集団ができた。
宮廷派はフランスとの和平を実現することで、大陸での既得権を少しでも守ろうとする政策へ転換した。サフォーク伯は王と議会の許可を得て、1444年トゥールで、フランス王家の分家アンジュー公家の娘マルグリート(マーガレット)と、ヘンリー6世の結婚を和平の証として取り決めた。サフォーク伯は議会両院から侯に叙され、翌年結婚式がおこなわれた。
評議会の実権を握ったサフォーク侯は、1446年ヨーク公をフランス総督から解任し、翌年グロスタ公を反逆罪で逮捕した。衝撃を受けたグロスタ公は急死し、4月ライバルの枢機卿も死去した。
宮廷派サフォーク侯の和平政策は、フランスで戦っているイングランド兵には不評で、王の結婚の際にアンジューとメーヌをフランスに譲り渡したという噂は主戦派を怒らせた。
1449年フランス王がノルマンディに侵入して、1450年イングランドによるノルマンディ支配は終わった。
1440年代
世界各国史11 イギリス史
評議会の実権を握ったサフォーク侯は、1446年ヨーク公をフランス総督から解任し、翌年グロスタ公を反逆罪で逮捕した。衝撃を受けたグロスタ公は急死し、4月ライバルの枢機卿も死去した。
宮廷派サフォーク侯の和平政策は、フランスで戦っているイングランド兵には不評で、王の結婚の際にアンジューとメーヌをフランスに譲り渡したという噂は主戦派を怒らせた。
1449年フランス王がノルマンディに侵入して、1450年イングランドによるノルマンディ支配は終わった。
1440年代
世界各国史11 イギリス史