
ポーランド王ヴワディスワフ3世 ハンガリー国王即位
ハンガリーでは、フリードリヒの皇帝選出直後にエルジェーベト妃がラディスラウスを出産するが、多くの貴族はポーランド王、ヤゲウォ家のヴワディスワフ3世を国王に迎えようとした。
エルジェーベトはラディスラウスの戴冠式を強行。その後すぐにハンガリーに到着したヴワディスワフも戴冠式をおこなった。(ハンガリー王ウラースロー1世 在位1440〜44)
ヴワディスワフは自派の貴族を次々に高官に任命した。そのなかにオスマン軍との戦いで頭角をあらわしたフニャディ・ヤーノシュがいた。彼の活躍でフニャディ家は大貴族に加わった。
エルジェーベトは幼王の身柄と「聖王冠」を皇帝フリードリヒに委ねた。両派は争いを繰り返したが、1442年末に和睦。エルジェーベトはヴワディスワフの王位を承認した。以後、諸身分による選挙王制となり、身分制議会も定期的に開かれるようになった。
1440年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
エルジェーベトはラディスラウスの戴冠式を強行。その後すぐにハンガリーに到着したヴワディスワフも戴冠式をおこなった。(ハンガリー王ウラースロー1世 在位1440〜44)
ヴワディスワフは自派の貴族を次々に高官に任命した。そのなかにオスマン軍との戦いで頭角をあらわしたフニャディ・ヤーノシュがいた。彼の活躍でフニャディ家は大貴族に加わった。
エルジェーベトは幼王の身柄と「聖王冠」を皇帝フリードリヒに委ねた。両派は争いを繰り返したが、1442年末に和睦。エルジェーベトはヴワディスワフの王位を承認した。以後、諸身分による選挙王制となり、身分制議会も定期的に開かれるようになった。
1440年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
1443年、王国南部の防衛を任されていたフニャディはバルカンに遠征した。小アジアでカラマン君侯国とも対立していたオスマン帝国は和平を提案してきた。フニャディの勝利によってキリスト教各国は大規模な十字軍を計画した。ヴワディスワフはオスマン帝国と和平を締結し、すぐにそれを破棄して十字軍遠征に出るという策をとることにした。1444年、十字軍の計画が進まず、わずかな軍で怒るスルタンのオスマン軍と戦ったヴァルナの戦い。ヴワディスワフは敗死した。
1445年議会でラディスラウスを国王に選出するが(ハンガリー王ラースロー5世 在位1445〜57)、皇帝フリードリヒはラディスラウスをハンガリーへ行かせなかった。1446年フニャディが国王未成年期間の摂政に選出され、1452年には成年(12歳?)に達した国王に権力を引き渡したが、国王はハンガリーに来なかった。
1453年コンスタンティノープルが陥落、1456年にはベオグラードがオスマン軍の標的になった。フニャディは防衛はできたが、陣中で流行したペストのために死去した。
1445年議会でラディスラウスを国王に選出するが(ハンガリー王ラースロー5世 在位1445〜57)、皇帝フリードリヒはラディスラウスをハンガリーへ行かせなかった。1446年フニャディが国王未成年期間の摂政に選出され、1452年には成年(12歳?)に達した国王に権力を引き渡したが、国王はハンガリーに来なかった。
1453年コンスタンティノープルが陥落、1456年にはベオグラードがオスマン軍の標的になった。フニャディは防衛はできたが、陣中で流行したペストのために死去した。