
ヴァシリー2世 大公位継承戦争
1425年にヴァシリー2世は9才で即位したが、叔父のガーリチ公ユーリーも大公位継承を主張した。ルーシでの公位継承は古くは兄から弟へおこなわれ(年長制)やがて父から子への継承(長子制)もおこなわれるようになった。それまでの継承の際には弟か子、どちらかしか存在しなかったが、このとき初めて双方がいた。さらにユーリーには重要な根拠があった。ドミートリー・ドンスコイの遺言状に、死後、大公位は弟に与えられると記されていた。息子ヴァシリーが生まれる前に書かれたものだったが、それなりに意味を持っていた。
ハン国での勅許状獲得競争で敗れたユーリーは、ヴァシリーの後見人リトアニアのヴィタウタスの死後、1433年にモスクワを占領し、ヴァシリーをコロムナに追放した。しかし、モスクワの貴族や士族がヴァシリーのもとに去って、ユーリーはモスクワを維持できなくなった。翌年にもモスクワに入るが、その後死去した。ユーリーの子ヴァシリー・コソイと弟ドミートリー・シェミャーカが戦いを続け、内戦はシェミャーカが死亡する1453年まで続いた。
ハン国での勅許状獲得競争で敗れたユーリーは、ヴァシリーの後見人リトアニアのヴィタウタスの死後、1433年にモスクワを占領し、ヴァシリーをコロムナに追放した。しかし、モスクワの貴族や士族がヴァシリーのもとに去って、ユーリーはモスクワを維持できなくなった。翌年にもモスクワに入るが、その後死去した。ユーリーの子ヴァシリー・コソイと弟ドミートリー・シェミャーカが戦いを続け、内戦はシェミャーカが死亡する1453年まで続いた。
この激しい継承戦争はルーシを荒廃させ、人口は激減した。野蛮と残虐は当事者にもおよび、モスクワのヴァシリーはガーリチのヴァシリーを捕らえて目を潰し、自らものちにシェミャーカから同様の仕打ちを受けた。盲目公と呼ばれる。
モスクワの北東ルーシでの覇権は確立していて、誰がモスクワで君主になるかという争いだった。大公位に対して同等の権利を持つ二人の争いということで、諸公国、貴族、教会なども一貫した態度がとれず、タタールもどちらかを一貫して支持するということはなかった。
モスクワが勝利したのは、終盤でのトヴェーリとの同盟や教会からの支持もあったが、ガーリチ公が即位すると、モスクワ大公と結びつきが強い古参貴族・士族層が、自らの既得権を奪われることを恐れたためともされる。
1420年代
世界各国史22 ロシア史
モスクワの北東ルーシでの覇権は確立していて、誰がモスクワで君主になるかという争いだった。大公位に対して同等の権利を持つ二人の争いということで、諸公国、貴族、教会なども一貫した態度がとれず、タタールもどちらかを一貫して支持するということはなかった。
モスクワが勝利したのは、終盤でのトヴェーリとの同盟や教会からの支持もあったが、ガーリチ公が即位すると、モスクワ大公と結びつきが強い古参貴族・士族層が、自らの既得権を奪われることを恐れたためともされる。
1420年代
世界各国史22 ロシア史