
フス派戦争1
14世紀後半イギリスでオクスフォード大学のウィクリフが、聖書主義に基づき聖餐化体説を否定し、堕落した教会を激しく非難した。その思想はプラハ大学にもおよび、1403年に学長になったフスは、1402年からプラハ旧市街のベトレーム礼拝堂で説教をおこなっていた。フスは聖餐化体説を否定していないが、教会制度を批判し聖書を絶対的な権威としていた。不道徳な聖職者や不正な商人などを批判し、国王や貴族などの世俗権力には教会改革を推進する役割を求めていた。
カール4世の頃に一部の聖職者に富が集まり、それに貴族が反発していたことや、下級聖職者が教会上層部に対して批判を強めていたことなどで急速にフスの教えが広まったとされる。フスは当初国王ヴェンツェルの支持を得ていたが、1412年に教皇の贖宥状販売を批判して支持を失い、破門されていてプラハを去った。
1414年皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議にフスを正式な参加者として呼び、自由通行証を与えられていたが、フスは捕らえられ、公会議で有罪とされ翌年処刑された。これに対してボヘミアの貴族たちはボヘミアとモラヴィアに対する侮辱だとして抗議している。1417年プラハ大学は両形色(パンとぶどう酒)の聖餐を公認し貴族の多くもこれを支持した。1419年7月、フス派が市庁舎を襲撃(窓外放出事件)し、これに衝撃を受けた国王ヴェンツェルが翌月急死してしまった。
カール4世の頃に一部の聖職者に富が集まり、それに貴族が反発していたことや、下級聖職者が教会上層部に対して批判を強めていたことなどで急速にフスの教えが広まったとされる。フスは当初国王ヴェンツェルの支持を得ていたが、1412年に教皇の贖宥状販売を批判して支持を失い、破門されていてプラハを去った。
1414年皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議にフスを正式な参加者として呼び、自由通行証を与えられていたが、フスは捕らえられ、公会議で有罪とされ翌年処刑された。これに対してボヘミアの貴族たちはボヘミアとモラヴィアに対する侮辱だとして抗議している。1417年プラハ大学は両形色(パンとぶどう酒)の聖餐を公認し貴族の多くもこれを支持した。1419年7月、フス派が市庁舎を襲撃(窓外放出事件)し、これに衝撃を受けた国王ヴェンツェルが翌月急死してしまった。
フス派貴族やプラハ市当局はヴェンツェルの弟、皇帝ジギスムントにフス派の主張を認めさせた上でボヘミア国王に迎えようとしていたが、拒否された。フス派のなかの急進派は終末が近いと考え、ボヘミア南部にターボル市を建設した。1419〜20年にはフス派の基本綱領「プラハの四ヵ条」(説教の自由、両形色の聖餐、聖職者が世俗的権利や財産を所有することの禁止、聖書に反する罪の処罰)が作成された。
フス派には「穏健派」と「急進派」があって、穏健派はプラハ旧市街を中心とする都市同盟や貴族が多く、両形色の聖餐をローマ教会に認めさせて和解することを望んでいた。「聖杯派」「ウトラキスト」とも呼ばれる。
急進派はターボルやフラデツなどの都市を拠点とし、プラハ新市街にも支持者がいた。「神の法」を絶対的原則とし、徹底した社会改革をめざし、聖職者会議を最高権威とする神権政治を目標としていた。ジシュカの指導下に厳格な軍規が定められ、火器と戦車を用いる野戦軍がつくられた。ボヘミアではフス派が優勢、モラヴィアでは一時フス派が優勢だったがカトリックが巻き返した、シレジア、ラウジッツにはフス派は広がらなかった。
フス派戦争2 1410年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
フス派には「穏健派」と「急進派」があって、穏健派はプラハ旧市街を中心とする都市同盟や貴族が多く、両形色の聖餐をローマ教会に認めさせて和解することを望んでいた。「聖杯派」「ウトラキスト」とも呼ばれる。
急進派はターボルやフラデツなどの都市を拠点とし、プラハ新市街にも支持者がいた。「神の法」を絶対的原則とし、徹底した社会改革をめざし、聖職者会議を最高権威とする神権政治を目標としていた。ジシュカの指導下に厳格な軍規が定められ、火器と戦車を用いる野戦軍がつくられた。ボヘミアではフス派が優勢、モラヴィアでは一時フス派が優勢だったがカトリックが巻き返した、シレジア、ラウジッツにはフス派は広がらなかった。
フス派戦争2 1410年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史