
コンスタンツ公会議
1410年にドイツ国王となったカール4世の次男ジギスムント(国王在位1410〜37、皇帝在位1433〜37)はローマ教皇ヨハンネス23世をうながして、1414年、コンスタンツで公会議を開かせた。三人の教皇を含む高級聖職者300名以上、世俗君主、諸侯など数千名の大会議となったが、三人が教皇の座を失い、1417年にあらたにマルティヌス5世を選出して教会分裂が終わった。
もう一つの問題がプラハの教会改革派。教皇の贖宥状販売を批判していたフスを保守派が異端として告発した。ジギスムントはフスを公会議に招き、安全通行証を発行した。しかしフスは逮捕され、公開弁論のあとに異端を宣告され、1415年7月火刑に処された。
もう一つの問題がプラハの教会改革派。教皇の贖宥状販売を批判していたフスを保守派が異端として告発した。ジギスムントはフスを公会議に招き、安全通行証を発行した。しかしフスは逮捕され、公開弁論のあとに異端を宣告され、1415年7月火刑に処された。
フスの教義は、ローマ教会より聖書により高い権威を認め、聖書に立ち返り、予定説を信奉し、教会に清貧を求めるものだった。フスの処刑は急進的なフス主義をボヘミアに生み出した。
1420年ジギスムント率いる十字軍がプラハを襲撃したが、十字軍が敗北。その後4回十字軍が派遣されたが、すべて失敗に終わった。ローマ教皇も妥協を受け入れ、バーゼル公会議が開かれた。1436年のバーゼル協約で教会と穏健なフス派は妥協を成立させた。 ジギスムントの帝国に平和と一体感を与えるという目的はバーゼル公会議に持ち越された。
世界各国史13 ドイツ史 1410年代
1420年ジギスムント率いる十字軍がプラハを襲撃したが、十字軍が敗北。その後4回十字軍が派遣されたが、すべて失敗に終わった。ローマ教皇も妥協を受け入れ、バーゼル公会議が開かれた。1436年のバーゼル協約で教会と穏健なフス派は妥協を成立させた。 ジギスムントの帝国に平和と一体感を与えるという目的はバーゼル公会議に持ち越された。
世界各国史13 ドイツ史 1410年代