
アラゴン国王フェルナンド1世とフアン2世
2歳でカスティーリャ国王に即位したフアン2世の摂政のひとり、エンリケ3世の弟フェルナンド・デ・アンテケーラは、1410年にグラナダ王国のアンテケーラを攻略した。これによって政治的発言力を強めると、息子たちをサンティアゴ、アルカンタラ両騎士団長などの要職に就けた(アラゴンの王子たち)。
当時アラゴン連合王国ではマルティン1世の没後、王位継承問題が起きていて、1412年のカスペ会議でフェルナンド1世として国王に選出された。トラスタマラ家がアラゴンの王位にも就くことになった。アラゴン王に即位後も、フェルナンド1世は息子「アラゴンの王子たち」やそれに連なる有力貴族を通して、カスティーリャ王国に勢力を保持していた。「アラゴンの王子たち」のアルフォンソはアラゴン王を継ぎ、フアンはナバーラ王位に就いた。
フアン2世(1406〜54)や国王支持派貴族との確執は強くなり、1445年オルメードでの戦いになった。「アラゴンの王子たち」は敗れ、フアン2世は「王権の絶対性」を主張し始めた。2名の財務総監のもとで国王財政機構が整備され、1435年以降、コルテスへの参加資格を持つ都市もメセータ(中央台地)都市を中心に17に限定された。
1410年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
当時アラゴン連合王国ではマルティン1世の没後、王位継承問題が起きていて、1412年のカスペ会議でフェルナンド1世として国王に選出された。トラスタマラ家がアラゴンの王位にも就くことになった。アラゴン王に即位後も、フェルナンド1世は息子「アラゴンの王子たち」やそれに連なる有力貴族を通して、カスティーリャ王国に勢力を保持していた。「アラゴンの王子たち」のアルフォンソはアラゴン王を継ぎ、フアンはナバーラ王位に就いた。
フアン2世(1406〜54)や国王支持派貴族との確執は強くなり、1445年オルメードでの戦いになった。「アラゴンの王子たち」は敗れ、フアン2世は「王権の絶対性」を主張し始めた。2名の財務総監のもとで国王財政機構が整備され、1435年以降、コルテスへの参加資格を持つ都市もメセータ(中央台地)都市を中心に17に限定された。
1410年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
アラゴン王ペドロ4世(在位1336〜87)はジェネラリタート(議会常設代表部 コルテス閉会中に臨時課税の徴収・管理にあたる)を安定的な制度とし、国王裁判所を再編して王権強化につとめた。トラスタマラ朝の内乱ではエンリケを支持し、傍系に委ねられていたマジョルカ島とカタルーニャ人傭兵が樹立したアテネ公国を併合、地中海支配を安定させた。ペルピニャン大学を創設してもいる。
しかし、1348年のペストによる大幅な人口減少と生産力低下、軍事支出増加による財政悪化もみられた。次のフアン1世、マルティン1世の時代になると、オスマン帝国の進出、アテネ公国の喪失、1391年の反ユダヤ運動、金融危機などで社会・経済危機は深刻になっていた。
1410年マルティン1世が死去し、王位の空白が生じると、アラゴン連合王国は解体の危機に陥った。1412年、王位継承問題を討議するためにカスペ会議が開かれ、アラゴン連合王国の解体と内乱回避のため、カスティーリャ国王の摂政フェルナンド・デ・アンテケーラが推され、教会もカスペ会議を正当と認めて、フェルナンド1世(在位1412〜16)として即位した。当初貴族への譲歩を余儀なくされたが、シチリアを直轄領とし、サルデーニャの反乱を鎮圧、ジェノヴァとの休戦協定に署名した。また国際的地位を確保するために、統一教皇マルティヌス5世を承認している。
しかし、1348年のペストによる大幅な人口減少と生産力低下、軍事支出増加による財政悪化もみられた。次のフアン1世、マルティン1世の時代になると、オスマン帝国の進出、アテネ公国の喪失、1391年の反ユダヤ運動、金融危機などで社会・経済危機は深刻になっていた。
1410年マルティン1世が死去し、王位の空白が生じると、アラゴン連合王国は解体の危機に陥った。1412年、王位継承問題を討議するためにカスペ会議が開かれ、アラゴン連合王国の解体と内乱回避のため、カスティーリャ国王の摂政フェルナンド・デ・アンテケーラが推され、教会もカスペ会議を正当と認めて、フェルナンド1世(在位1412〜16)として即位した。当初貴族への譲歩を余儀なくされたが、シチリアを直轄領とし、サルデーニャの反乱を鎮圧、ジェノヴァとの休戦協定に署名した。また国際的地位を確保するために、統一教皇マルティヌス5世を承認している。