
ヘンリ4世と主戦派王子ヘンリ
1404年にウェールズとフランスの協定が成立し、1405年のウェールズでの反乱にはフランス勢力が介入していた。
スコットランドでは国王ロバート3世の長子ロセス公と王弟アルバニ公が摂政位をめぐって争い、ロセス公が殺されたため、1406年、王家は次子ジェイムズをフランスへ逃れさせた。しかしイングランド軍によって捕らえられ、イングランド王家に拘束された。4月ロバート3世が死去すると、フランスはアルバニを支援してイングランドを牽制した。
1410年代
世界各国史11 イギリス史
スコットランドでは国王ロバート3世の長子ロセス公と王弟アルバニ公が摂政位をめぐって争い、ロセス公が殺されたため、1406年、王家は次子ジェイムズをフランスへ逃れさせた。しかしイングランド軍によって捕らえられ、イングランド王家に拘束された。4月ロバート3世が死去すると、フランスはアルバニを支援してイングランドを牽制した。
1410年代
世界各国史11 イギリス史
1405年、フランス王シャルル6世が精神を患っていることが公表され、1411年にフランス王家とブルゴーニュ家の争いが明らかになった。イングランドではフランスとの戦争再開が、王家・有資産住民にとって利益がある政策として主張され始めた。
1408年にヘンリ4世が病気になると、主戦派の王子ヘンリの人気が高まった。1410年に評議会の主導権を握った王子ヘンリは、翌年ブルゴーニュ派に援軍を送るかたちで大陸への派兵を決めた。
1412年、王は評議会を改組して主戦派をおさえ、もうひとりの王子トマスにあらたな評議会を組織させた。この評議会はブルゴーニュ派の反英活動を懸念して、親仏王勢力のアルマニャック派と提携した。主戦派の王子ヘンリと、ガスコーニュ領有の維持、対仏和平策をとろうとするヘンリ4世との食い違いが見えてきたが、1413年3月ヘンリ4世は死去した。
1408年にヘンリ4世が病気になると、主戦派の王子ヘンリの人気が高まった。1410年に評議会の主導権を握った王子ヘンリは、翌年ブルゴーニュ派に援軍を送るかたちで大陸への派兵を決めた。
1412年、王は評議会を改組して主戦派をおさえ、もうひとりの王子トマスにあらたな評議会を組織させた。この評議会はブルゴーニュ派の反英活動を懸念して、親仏王勢力のアルマニャック派と提携した。主戦派の王子ヘンリと、ガスコーニュ領有の維持、対仏和平策をとろうとするヘンリ4世との食い違いが見えてきたが、1413年3月ヘンリ4世は死去した。