
グルンヴァルドの戦い
ヴィトルドは全ルーシを統合して、リトアニアを王国にしようとした。彼はキプチャクのタタールを破ることで目的の実現をめざして、1398年には騎士団へのジムジ割譲に同意した。しかし翌年8月、ティムールの軍に完敗したことで、ポーランドと接近していった。ヤドヴィガが死去して、ヤギェウォの立場が弱くなったことも両者の妥協に影響したらしい。
1401年、ヴィルノとラドムの集会の決議でヴィトルドに「リトアニア大公」の地位が認められた(ヴィルノ・ラドムの合同)。クレヴォ合意文書の修正とされているが、1392年の総督権との違いがわからない。(ポーランド王冠のもとにあるリトアニア大公国の実質的君主?)
1401年ジムジで蜂起が起き、ポーランドとリトアニアは騎士団との戦争状態に入った。1404年の和約でドブジンの買い戻し権を得たポーランドでは、資金調達のために各県でシュラフタの集会が開かれて、臨時課税が承認された。君主が招集した最初の地方小議会だとされる。
ポーランドとリトアニアの戦闘態勢が整ったのは、スモレンスクを制圧し、モスクワとの戦い(1406〜08年)を終えてからだった。
1410年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1401年、ヴィルノとラドムの集会の決議でヴィトルドに「リトアニア大公」の地位が認められた(ヴィルノ・ラドムの合同)。クレヴォ合意文書の修正とされているが、1392年の総督権との違いがわからない。(ポーランド王冠のもとにあるリトアニア大公国の実質的君主?)
1401年ジムジで蜂起が起き、ポーランドとリトアニアは騎士団との戦争状態に入った。1404年の和約でドブジンの買い戻し権を得たポーランドでは、資金調達のために各県でシュラフタの集会が開かれて、臨時課税が承認された。君主が招集した最初の地方小議会だとされる。
ポーランドとリトアニアの戦闘態勢が整ったのは、スモレンスクを制圧し、モスクワとの戦い(1406〜08年)を終えてからだった。
1410年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1410年7月、ポーランド・リトアニア・ルーシの連合軍は,グルンヴァルド村でドイツ騎士団を撃破した。しかし、首都マルボルクの城は落とせず、ハンガリー・ドイツ王ジギスムントの宣戦布告もあった。騎士団は東ポモージェの返還には応じず、ジムジの領有もヴィトルドの生存中に限って認めただけだった。
騎士団との問題が解決できないまま、1413年ポーランドとリトアニアの合同集会で、リトアニアはヴィトルドの死後も大公をもつことが認められ、ほぼ別個の国家となった。ヴィルノとトロキにはポーランド的地方官職が導入され、ポーランドの紋章氏族の代表たちがリトアニア系のボヤールの家門をひとつずつ同族として受け入れた。両国は政治・社会の同質化を徐々に進めながら、国家連合へと進んでいった。
ドイツ騎士団との戦いは、コンスタンツ公会議での論争を挟んで断続的に続いた。1422年のメルノ河畔の和約で、騎士団はジムジを無条件で放棄した。リトアニアとの係争問題が消滅し、以後の戦いはポーランド王冠が続けることになった。
グルンヴァルドの戦いに敗れたことで、ドイツ騎士団の勢力は衰えていった。ルクセンブルク家もチェコのフス革命もあって1437年に男系が途絶えた。ヤギェウォは晩年二人の男子を得た。
ルクセンブルク家系図 世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
騎士団との問題が解決できないまま、1413年ポーランドとリトアニアの合同集会で、リトアニアはヴィトルドの死後も大公をもつことが認められ、ほぼ別個の国家となった。ヴィルノとトロキにはポーランド的地方官職が導入され、ポーランドの紋章氏族の代表たちがリトアニア系のボヤールの家門をひとつずつ同族として受け入れた。両国は政治・社会の同質化を徐々に進めながら、国家連合へと進んでいった。
ドイツ騎士団との戦いは、コンスタンツ公会議での論争を挟んで断続的に続いた。1422年のメルノ河畔の和約で、騎士団はジムジを無条件で放棄した。リトアニアとの係争問題が消滅し、以後の戦いはポーランド王冠が続けることになった。
グルンヴァルドの戦いに敗れたことで、ドイツ騎士団の勢力は衰えていった。ルクセンブルク家もチェコのフス革命もあって1437年に男系が途絶えた。ヤギェウォは晩年二人の男子を得た。
ルクセンブルク家系図 世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史