
皇帝ジギスムント
1400年に兄・皇帝ヴェンツェルが皇帝位を追われたあと、1410年に弟ジギスムントが皇帝(在位1410〜37)に選出された。
解決すべき大きな問題のひとつは、1378年から続く教会大分裂と教会改革だった。1414年から始まったコンスタンツ公会議で、1417年に統一教皇としてマルティヌス5世を選出することができた。もう一つはボヘミアで広がっていたフス派の問題だった。
オスマン帝国は1413年にメフメト2世が権力を確立し、再びバルカンで活動を始めていた。ハンガリーでは1420年代に南部国境沿いに一連の城による防衛ラインを築いていた。
皇帝になったジギスムントの活動の中心は1428年にブダからハンガリー王国西端のブラスチラヴァ(現在はスロヴァキア)に移された。晩年のジギスムントはローマでの正式な皇帝戴冠式を望み、1433年になって実現できた。
解決すべき大きな問題のひとつは、1378年から続く教会大分裂と教会改革だった。1414年から始まったコンスタンツ公会議で、1417年に統一教皇としてマルティヌス5世を選出することができた。もう一つはボヘミアで広がっていたフス派の問題だった。
オスマン帝国は1413年にメフメト2世が権力を確立し、再びバルカンで活動を始めていた。ハンガリーでは1420年代に南部国境沿いに一連の城による防衛ラインを築いていた。
皇帝になったジギスムントの活動の中心は1428年にブダからハンガリー王国西端のブラスチラヴァ(現在はスロヴァキア)に移された。晩年のジギスムントはローマでの正式な皇帝戴冠式を望み、1433年になって実現できた。
ジギスムントは国王・皇帝としての活動や、オスマン帝国やフス派との戦いに多額の出費を強いられた。そのため王領を抵当に入れたり、資金不足の君主がしばしば行う貨幣悪鋳によって差益を得ようともしていた。しかし貨幣悪鋳のために教会の十分の一税徴収をめぐって混乱が起き、そのために領主によって移動を制限されていたトランシルヴァニア地方の農民たちが不満をつのらせて蜂起した。事態の重要さを知ったトランシルヴァニア侯はいったん要求を認めるようにみせかけて、地方の特権身分層(ハンガリー人の聖職者・貴族、セーケイ人、ザクセン人「三民族」)と同盟を結び冬になって反攻、農民軍を一掃してしまった。
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史 1410年代
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史 1410年代
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
