
アラゴン国王フェルナンド1世とフアン2世
14世紀後半から15世紀、アラゴン連合王国の中枢カタルーニャ地方では、ペストなどにより人口の35〜40%が失われたとされ、バルセロナの人口も20%近く減少している。生産力は低下し、商業も低迷、深刻な危機が続いていた。14世紀半ばの高品位フローリン金貨発行は金貨の海外流失を招き、ペドロ4世の対外政策による軍事支出や公共支出の増大は王室財政とバルセロナの都市財政を急激に悪化させた。王室と市当局は、内外の銀行から短期の高利融資を受け、公債の発行もおこなったが、14世紀末〜15世紀初めに支払い不能に陥り、バルセロナの個人銀行が連鎖倒産してしまった。
1410年バルセロナ市当局はジェネラリタート財政と都市財政、都市公債を管理下に置き、両替と預金業務もおこなうヨーロッパ最初の公営銀行を開設した。これにより金融危機を回避し、都市債務を減少させたが、安全な投資先とされ資本が集中し、商業・手工業への投資が控えられた。
レメンサ農民 保有地放棄のときに領主課税の義務を負っている。
1410年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
1410年バルセロナ市当局はジェネラリタート財政と都市財政、都市公債を管理下に置き、両替と預金業務もおこなうヨーロッパ最初の公営銀行を開設した。これにより金融危機を回避し、都市債務を減少させたが、安全な投資先とされ資本が集中し、商業・手工業への投資が控えられた。
レメンサ農民 保有地放棄のときに領主課税の義務を負っている。
1410年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
カタルーニャ地方の地中海貿易も、15世紀初め以降急速に縮小していた。カタルーニャ商人は、地中海各地の商人居留地とバルセロナの商業技術によって活発に活動していた。毛織物製品、金属製品をマグレブ地方に輸出し、アレクサンドリアなどで香辛料を買い入れ、それをヨーロッパ諸国に輸出していた。15世紀に入ると、ジェノヴァ商人との競争が激化、カスティーリャ・ポルトガル商人の進出、ポルトガルのアフリカ西海岸南下による貿易路の変更などで、カタルーニャ商人は北アフリカ貿易から排除され始めた。
15世紀前半に危機をほぼ脱したカスティーリャ経済に対して、カタルーニャ経済はより深刻になった。15世紀末には450万人に達したカスティーリャの人口だが、アラゴン連合王国は100万人ほどだった。地代収入の減少のため封建領主は、レメンサ農民の土地緊縛を強化し、地代を増額した。レメンサ農民は「悪慣習」の廃止を求め、商人や手工業者親方層は、都市行政の改革を求めて、ブスカという党派を組織していく。反ユダヤ運動でバルセロナやバレンシアのアルハマは壊滅的な打撃を受けた。バルセロナではレメンサ農民も反ユダヤ運動に加わったが、社会の下層に位置していたムデハルは虐殺の対象にはならなかった。
15世紀前半に危機をほぼ脱したカスティーリャ経済に対して、カタルーニャ経済はより深刻になった。15世紀末には450万人に達したカスティーリャの人口だが、アラゴン連合王国は100万人ほどだった。地代収入の減少のため封建領主は、レメンサ農民の土地緊縛を強化し、地代を増額した。レメンサ農民は「悪慣習」の廃止を求め、商人や手工業者親方層は、都市行政の改革を求めて、ブスカという党派を組織していく。反ユダヤ運動でバルセロナやバレンシアのアルハマは壊滅的な打撃を受けた。バルセロナではレメンサ農民も反ユダヤ運動に加わったが、社会の下層に位置していたムデハルは虐殺の対象にはならなかった。