
ヘンリ4世 ランカスタ朝
アンジュー家男子直系最後のリチャードから王位を継いだランカスタ家のヘンリ4世は、継承の際に議会での承認と多くの貴族の支持を必要とした。ヘンリは自らの王位を確立し、子孫への継承を確実にしなければならなかった。ヘンリが最初に支持を求めたのは、1397年、リチャード2世による「クーデタ」の際に犠牲となった家柄のグロスタ公家、アランデル伯家など。次ぎにリチャードの寵臣だった人々の一部も年金を与えることで、自派に取り入れた。北部では1403年にノーサンバランド伯パーシー家が反乱を起こしたが、ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルを自派に取り込むことで、1408年までに鎮圧できた。
ヘンリは味方についた諸侯には恩顧を与え(その従者には年金)、反抗した諸侯とは敵対した。武力で、国王側が勝利することで、王を中心とする従者団(アフィニティ)が形成された。しかし、年金支給の財源は王領収入だったので、支出が増大するとあらたな財源が必要になった。リチャードが寵臣に与えていた王領を没収しても不足し、課税を提案したが、1404年コモンズは承諾しなかった。
ヘンリは味方についた諸侯には恩顧を与え(その従者には年金)、反抗した諸侯とは敵対した。武力で、国王側が勝利することで、王を中心とする従者団(アフィニティ)が形成された。しかし、年金支給の財源は王領収入だったので、支出が増大するとあらたな財源が必要になった。リチャードが寵臣に与えていた王領を没収しても不足し、課税を提案したが、1404年コモンズは承諾しなかった。
コモンズは王に年金の過剰配分を自粛するように要求した。妥協により前例のない土地所有課税と教会領の収公が決められたが、十分な効果はあがらなかった。教会領の収公はロラード派の主張と似ていると指摘されて撤回された。コモンズは、1366年以降恩顧として臣下に与えられていた収入権を王が回収することを条件に、課税に応じた。
1400〜04年のあいだに、王の側近や評議会にジェントリ出身者が増えている。王とコモンズの協力関係を示しているように見えるが、1405年にパーシィ家の反乱を鎮圧すると、王の統治方針は再び諸侯に依存するようになった。1401年、カンタベリ大司教の提案で貴族院の賛成を得た、異端焚刑法が庶民院に示されたとき、ロラード派の弁明の余地を残すべきというコモンズの請願が受け付けられ、1407年の議会で献金や課税の提案権をコモンズに認めている。コモンズとの協調の動きも見られたが、フランスとの戦争が諸侯重視の政策へ向かわせた。
1390年代
世界各国史11 イギリス史
1400〜04年のあいだに、王の側近や評議会にジェントリ出身者が増えている。王とコモンズの協力関係を示しているように見えるが、1405年にパーシィ家の反乱を鎮圧すると、王の統治方針は再び諸侯に依存するようになった。1401年、カンタベリ大司教の提案で貴族院の賛成を得た、異端焚刑法が庶民院に示されたとき、ロラード派の弁明の余地を残すべきというコモンズの請願が受け付けられ、1407年の議会で献金や課税の提案権をコモンズに認めている。コモンズとの協調の動きも見られたが、フランスとの戦争が諸侯重視の政策へ向かわせた。
1390年代
世界各国史11 イギリス史