
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ ミラノ公位を得る
教皇領の北は、ヴェネツィアを除いて、神聖ローマ帝国の領域(イタリア王国)だった。北東部、北西部は封建諸侯が支配していたが、多くはコムーネが支配し、シニョリーアから君主制に移行することもあった。
ミラノのヴィスコンティ家は、シニョーレの世襲化に成功し、多くのロンバルディア都市のシニョーレを兼任して、支配領域を急速に拡大した。1354年、同家の支配領域は家族内で分割され、それぞれの領域がさらに拡大した。1384年、ジャン・ガレアッツォによって再度統一された。ジャン・ガレアッツォはロンバルディア以外にも支配領域を拡大し、1395年、多額の貢納金と引き換えに公位を得て、ミラノ公国の君主になった。
1390年代
世界各国史15 イタリア史
ミラノのヴィスコンティ家は、シニョーレの世襲化に成功し、多くのロンバルディア都市のシニョーレを兼任して、支配領域を急速に拡大した。1354年、同家の支配領域は家族内で分割され、それぞれの領域がさらに拡大した。1384年、ジャン・ガレアッツォによって再度統一された。ジャン・ガレアッツォはロンバルディア以外にも支配領域を拡大し、1395年、多額の貢納金と引き換えに公位を得て、ミラノ公国の君主になった。
1390年代
世界各国史15 イタリア史
ジャン・ガレアッツォは、西はアスティ、東はパドヴァ、南はピサ、シエナ、教皇領のボローニャ、ペルージャを獲得し、それぞれのシニョーレになった。ヴェネツィアとフィレンツェは包囲され、フィレンツェでは「反専制君主」の政治宣伝が始まった。
しかし、1402年にジャン・ガレアッツォは急死し、彼による政治的統一は瓦解した。公位を継承した息子ジョヴァンニ・マリーアは残忍な性格のため、1412年に暗殺された。公位を継承した弟フィリッポ・マリーアは、旧領の中核部分は回復したが、ヴェネツィアとフィレンツェの同盟に妨害されて、それ以上の回復はできなかった。フィリッポ・マリーアには男子後継者がなく、庶出の一人娘は、傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァと、姉はフランス王シャルル5世の次男オルレアン公ルイと結婚した。
地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房
しかし、1402年にジャン・ガレアッツォは急死し、彼による政治的統一は瓦解した。公位を継承した息子ジョヴァンニ・マリーアは残忍な性格のため、1412年に暗殺された。公位を継承した弟フィリッポ・マリーアは、旧領の中核部分は回復したが、ヴェネツィアとフィレンツェの同盟に妨害されて、それ以上の回復はできなかった。フィリッポ・マリーアには男子後継者がなく、庶出の一人娘は、傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァと、姉はフランス王シャルル5世の次男オルレアン公ルイと結婚した。
地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房
