
ハンガリー王ジギスムント即位
皇帝カール4世を継いだ皇帝ヴェンツェル(在位1378〜1400 ボヘミア王ヴァーツラフ4世 在位1378〜1419)は1400年に皇帝位を追われてしまった。
第二子ジギスムントは父帝の死にともない1378年にブランデンブルク辺境伯、1387年にハンガリー王(ハンガリー名ジグモンド)、1410年に皇帝、1436年にはボヘミア王(ボヘミア名ジクムント)となった。
ラヨシュの次女マーリアがハンガリー女王として即位していたが、女性が国王になることに反対する貴族も多く、王位継承をめぐる内紛が続いていた。内乱に直接関わっていなかった大貴族たちによって、1387年マーリアの夫ジギスムントが王位について事態は収拾に向かった。統治初期には大貴族に従うしかなく、広大な王領と多くの王城は貴族に下賜されて、10年間で半減してしまった。
次の難問はオスマン帝国。カトリック世界に対オスマン十字軍を呼びかけて、応じてきた大勢の騎士軍を率いて、1396年にジギスムントは出陣したが、ニコポリスでスルタン・バヤズィット1世(在位1389〜1402)の軍に大敗してしまう。カトリック諸国にとって、1402年にアンカラの戦いでバヤズィット1世がティムールに敗れ、オスマン帝国が解体寸前までいたったことが幸運だった。
帰国したジギスムントは大貴族から自由になるために、自らに忠実な貴族とポーランド、オーストリア出身の者たちを重用、優遇した。不満をつのらせた大貴族は1401年、ジギスムントをブダ城に軟禁してしまう。大貴族たちが新たな国王候補を捜しているうちに、ジギスムント派が国王を救出。ジギスムントは謀反を起こした者を罰することなく許したことで、かえってその権威は高まった。
第二子ジギスムントは父帝の死にともない1378年にブランデンブルク辺境伯、1387年にハンガリー王(ハンガリー名ジグモンド)、1410年に皇帝、1436年にはボヘミア王(ボヘミア名ジクムント)となった。
ラヨシュの次女マーリアがハンガリー女王として即位していたが、女性が国王になることに反対する貴族も多く、王位継承をめぐる内紛が続いていた。内乱に直接関わっていなかった大貴族たちによって、1387年マーリアの夫ジギスムントが王位について事態は収拾に向かった。統治初期には大貴族に従うしかなく、広大な王領と多くの王城は貴族に下賜されて、10年間で半減してしまった。
次の難問はオスマン帝国。カトリック世界に対オスマン十字軍を呼びかけて、応じてきた大勢の騎士軍を率いて、1396年にジギスムントは出陣したが、ニコポリスでスルタン・バヤズィット1世(在位1389〜1402)の軍に大敗してしまう。カトリック諸国にとって、1402年にアンカラの戦いでバヤズィット1世がティムールに敗れ、オスマン帝国が解体寸前までいたったことが幸運だった。
帰国したジギスムントは大貴族から自由になるために、自らに忠実な貴族とポーランド、オーストリア出身の者たちを重用、優遇した。不満をつのらせた大貴族は1401年、ジギスムントをブダ城に軟禁してしまう。大貴族たちが新たな国王候補を捜しているうちに、ジギスムント派が国王を救出。ジギスムントは謀反を起こした者を罰することなく許したことで、かえってその権威は高まった。
1402年には、息子がいなかったジギスムントが後継者にオーストリア大公アルブレヒト4世(在位1395〜1404)を指名、それに反発した旧アンジュー派貴族たちはジギスムント廃位を宣言したが、統制がとれないうちに国王派の軍に敗れた。このときも寛大さを示して、首謀者以外を許している。
1408年には忠誠を誓った貴族たちと「竜騎士団」を創設。権威を確立して、国政改革と外交に取り組めるようになった。ニコポリスで大敗したジギスムントは軍制の改革に着手した。ハンガリー軍は国王軍と高位官職保有貴族(バーロー)と高位聖職者がそれぞれの軍旗のもとに率いた部隊(バンデリウム)で形成されていた。ジギスムントは大所領を所有する貴族は高位官職を保有してなくても自分の軍旗の下に部隊を率いることができるとした。ただちに王国の兵力を高めたわけではないが、これによってひとつの身分だった貴族が、バンデリウムを率いることができる上級貴族とそれ以外の下級貴族に別れることになった。
政治上の改革では、国王顧問会議に高位聖職者と大貴族のほかに「特別顧問官」として法律や財務の専門家を加えた。これによって大貴族の力をある程度制限することができた。また国王都市を王権強化のために保護したが、都市の数が少なく強力な協力相手とはならなかった。
教会に対しては1404年に、国内の教会に関する事項(聖職者任命など)に王の同意がなければ決定が下せないという「国王同意権」を宣言し、教皇の介入を制限した。コンスタンツ公会議でもハンガリー教会に対する国王の守護権が認められた。
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史 1380年代
1408年には忠誠を誓った貴族たちと「竜騎士団」を創設。権威を確立して、国政改革と外交に取り組めるようになった。ニコポリスで大敗したジギスムントは軍制の改革に着手した。ハンガリー軍は国王軍と高位官職保有貴族(バーロー)と高位聖職者がそれぞれの軍旗のもとに率いた部隊(バンデリウム)で形成されていた。ジギスムントは大所領を所有する貴族は高位官職を保有してなくても自分の軍旗の下に部隊を率いることができるとした。ただちに王国の兵力を高めたわけではないが、これによってひとつの身分だった貴族が、バンデリウムを率いることができる上級貴族とそれ以外の下級貴族に別れることになった。
政治上の改革では、国王顧問会議に高位聖職者と大貴族のほかに「特別顧問官」として法律や財務の専門家を加えた。これによって大貴族の力をある程度制限することができた。また国王都市を王権強化のために保護したが、都市の数が少なく強力な協力相手とはならなかった。
教会に対しては1404年に、国内の教会に関する事項(聖職者任命など)に王の同意がなければ決定が下せないという「国王同意権」を宣言し、教皇の介入を制限した。コンスタンツ公会議でもハンガリー教会に対する国王の守護権が認められた。
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史 1380年代